【433日目】満願の時きたれり! 弘法大師の聖地『高野山』

2023-11-11

目次

弘法大師の聖地『高野山』

四国八十八ヶ所を無事に結願したら最後に高野山奥之院を参拝してお参りします。なぜならば高野山は弘法大師の入定の地であり、今もこの地で生きていると信じられているからです。これは同行二人、四国を共に巡礼した弘法大師に、無事に遍路を終えられたことを伝えるためのお礼参り。そうして高野山奥之院に結願の報告をすることを満願といいます。高野山は弘法大師とご縁を頂いた人が最後にたどり着く聖地なのです。

弘法大師の入定した奥之院だけでなく、奥之院と共に高野山の二大聖地とされる壇上伽藍など、見どころが多すぎる高野山。お遍路関係なく単純に弘法大師の聖地として興味深いです。お礼参りがてら観光としても楽しんで来ようと思います。

高野山への直行路、国道480号線

国道480号線沿いにある笠田東第2ちびっ子広場からおはようございます。

本日の目的地は仏教の一大聖地である高野山。弘法大師に四国遍路終えたよの報告に行って参ります。これを終えることで四国八十八ヶ所巡り「満願」となります。

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結願した時の回

高野山までは国道480号線にのって青看板の案内通りに進んでいけばたどり着きます。

ここからわずか24kmと言えど山の上にある聖地なので、人力勢にとっては青看板に表示されているほど楽な道ではありません。次のファミマまで平気であと20kmとか言ってきますからね。セイコーマートじゃないんですから。この看板の裏に見えているセブンイレブンで万全の態勢を整えておきましょう。

セブンイレブンを出て40分ほど自転車を漕いだら「ようこそ世界遺産の高野山へ」の看板が登場。ようこその言葉と共に坂の傾斜もギアが上がりましたね。本当に勘弁。

道中、よもぎ餅を買ったり

焼き芋を買ったりと買い食いを重ねて国道480号線を攻略していきます。

チャリダー的にかなり嫌ですこのトンネル。登坂側でこんな狭いトンネルを行かねばならないなんて。修業はまだ続いているという事ですか大師。

腹立たしき志賀高野山トンネル突破。

須尭ツリーと同じ高さまでやってきました。高野山は標高約900mあるのでまだ登らされますね。

町石道と合流。町石道とは世界遺産にも登録されている高野参詣道のひとつです。

町石道

私は満願達成のために高野山に向かっているのでアクセス手段はなんでも、それこそ公共交通機関でもいいんですけど一応自転車日本一周中なのでチャリでひーこら言いながら移動しています。しかしお遍路や日本一周関係なく、単純に高野山のみを目的とするならこの町石道を行きたいものですね。

町石道の出発点は高野山の麓、久度山町の慈尊院。弘法大師が高野山を開創した際の登山口、また冬季の避寒修行地として建立されました。大師の母である玉依御前が滞在した寺としても知られており、大師は高野山から20kmの山道をものともせず、月に9回とも言われるほど頻繁に母に面会しに下山したといいます。これが慈尊院のある九度山という地名の由来です。

慈尊院からかつらぎ町天野を経て高野山大門に至り、壇上伽藍の根本大塔を経て奥之院へ至る総延長約24kmの参詣道、町石道。その特徴は全行程にわたって道標として町石という石製の五輪塔が設置されていることです。慈尊院から壇上伽藍までは180基、伽藍から奥之院御廟までは36基あり、これは胎蔵界の180尊と金剛界の37尊を表しています。胎蔵界と金剛界が何かは私には質問しないでください(´;ω;`)調べても全く要約できませんでした。「何を言っているんだお前は?」「日本語を喋れ」という感想しか出てこない。密教における宇宙の真理を胎蔵界と金剛界という二つに分けて説明しているという事はうっすら分かりました。

町石には番号が付けられており、慈尊院の町石が180番。伽藍に近づくにつれて番号が小さくなっていくカウントダウンです。大峯奥駈道の「靡」みたいですね。逆に伽藍から奥之院御廟までの37基は御廟に近づくにつれて番号が大きくなっていきます。これは伽藍まではあとどれくらいで着くかの距離計となっていて、伽藍から御廟までは功徳をどんどん積んでいく意味合いがあります。

中世において浄土思想が広がって以来、高野山に一度でも徒歩で参拝したならはるか前世の過去からの罪もすべて消滅すると信じられていたといいます。故に人々はこの道を単なる登山道とは考えず、祈りながら登っていく信仰の道としてとらえてきました。その信仰の心に身分も何も関係ありません。そのことを感じさせてくれるのが後宇多上皇のエピソード。

1313年に御幸した後宇多上皇もまた「何が何でも徒歩で高野山へ参る」の精神を持った方で、町石を一つ一つ丁寧に奉拝して歩き続け、ついには激しい雷雨に打たれ気絶までしました。上皇に万が一のことがあったら大変すぎるので、輿に乗るようにお供が懇願しても断固として拒否しました。単独行にこだわるアルピニストのスピリッツでしょうもう。上皇ぞ。その上で

後宇多上皇
後宇多上皇

私の長年の夢は、これらの仏を拝礼することだ。もし今、この霊地を巡りらなければどうして来世においても再び王として生まれ変わることができようか。私は今、俗世間を離れ、浄土を目指している。一つ一つの仏を拝むたびに罪が消え去り、一歩あゆむたびに足元に美しい蓮の花が広がる感覚がある。だからどんな天気だろうと、どれだけの時間がかかろうとも一向に構わん。

こんなセリフを言ったらしいです。果たして後宇多上皇は苦難を乗り越え後山上にたどり着きました。上皇をしてこれだけの大冒険をさせられるほど空海や浄土というのは憧れの対象だったのでしょう。

そんな祈りの道としての魅力がたっぷりなルートが町石道なのです。

高野山の総門『大門』

町石道との合流地を見送って「そろそろ着くだろォ!」と思った時、見えてきたのは朱色の山門。

間違いありません。高野山のシンボル「大門」です! 四国も大変でしたが高野山へのアクセスも骨が折れました。和歌山港からここまでの獲得標高は約900mと札所で言えば四国霊場最高所の雲辺寺くらいはありますからね。最後まで楽はさせてくれません。

ケーブルカーや車のない時代、明治末期までほとんどの参拝者は高野山を歩いて登ったわけですからインフラも整っていない昔の先人たちの苦労は幾らばかりだったか……。一日かけて高野山を登りようやくたどり着いた時にまず見たのはこの朱色の大門だったことでしょう。

大門正面の主柱に掛けられた対聯ついれん(ついれん)には「日々の影向を闕かさず」「処々の遺跡を検知す」と掲げられています。これは弘法大師が今でも毎日御廟から姿を現し衆生を救っているというお遍ラーにはなじみの深い「同行二人」の信仰に基づく言葉で、大師の弟子の真然大徳が残したものとされます。それを先の後宇多上皇が直筆したものを写して対聯に彫り込んだんですって。

高野山の総門と言われる大門を守る仁王像は迫力バツグン。

大門を抜けると民家や商店の立ち並ぶ街に入っていきます。高野山と聞いて閑静な山寺を想像していた人(私)は町の賑わいに驚くことでしょう。実際、寺よりも町家の方が多いようです。これは明治の廃仏毀釈と大寺21か寺、中小寺院30か寺、民家70余戸が焼失した「高野の大火」が大いに関係しています。江戸時代の高野山は全てがお寺で、商人たちもお寺の長屋に暮らしていました。それが明治のトラブルで統廃合され、空き地に民家が立ち並ぶようになったのです。

高野山の二大聖地『壇上伽藍』

約1200年前、弘法大師は真言密教の修行場としてここに小さなお堂を建立。高野山全体を大きな寺院として見た時、この壇上伽藍はその寺院の核といえる場所です。

中門

大門から1kmほど進むとまたもや朱塗りの大きな門が見えてきます。ここが壇上伽藍への正式な入り口である中門。南光坊と同じように中門を守るのは仁王像ではなく四天王です。

この中門やたらと綺麗ですが、それもそのはずで開創1200年記念の2015年に再建された最近の建物です。前回(1843年)の焼失から実に約170年ぶりの復活とのこと。壇上伽藍の建物は長い歴史の中で何度も焼失しているのでほとんどが再建されていますが、この中門の再建によってようやく壇上伽藍の建物がすべて揃ったのです。170年間も待たせやがって……。

まあ中門焼失時は時代が幕末に向かう頃で再建の余裕がなかったというのもありますが。焼失後、早い段階で再建事業に手がついていたのですが1860年には青巌寺(現金剛峯寺)まで焼失してしまって高野山は資金難に陥ってしまったのです。そして明治に入れば神仏分離令で廃仏毀釈ですからね。ままならぬ。

ちなみに中門が燃えた1843年の火災では西塔以外、壇上伽藍は全部燃えています。追い打ちをかけるように1888年には高野山のほぼ全寺を焼き尽くすという大火災が起きています。もう高野山が十二番札所『焼山寺』でしょう。

この中門まわりの話はめちゃくちゃ面白いので後の方でもたびたび触れようと思います。

金堂

金堂は高野山一山の総本堂。819年に空海が建立したもので、初めは講堂と呼ばれていました。

本尊は薬師如来ですが、元々は阿閦あしゅく如来だったかも……とも言われています。1926年に金堂が焼失したためそれまでの本尊がどっちだったのか分からなくなってしまったんですよね。ご本尊を祀る脇待仏の方は写真が残っていたため忠実に再現されています。そっちは残っとるんかい。本尊が秘仏であったがゆえに資料として残っていないというカラクリです。

1926年の火災は昭和元年。大正天皇が崩御され、元号が昭和になった翌日の早朝に、燈明の油が凍らないようにと火鉢で温めていたら引火したのが原因と言われています。油を火鉢で温める……? と思いそうになりますが、当時の高野山は積雪1mを越えることもしばしばの極寒の地で、燈明の油でさえ温める必要があったのです。

こちらも何度も焼失しており、7度目の再建になります。現在の金堂は1934年に再建されました。

創建当時は檜皮葺でした、というか金堂に限らず高野山では、建物は檜皮葺やこけら葺が一般的でした。これは当時の瓦では、冬季の寒さによる凍結で割れてしまうからです。しかし落雷や火の不始末によってあっという間に火事になってしまうというリスクもあったのが檜皮葺やこけら葺。実際7度燃えているわけですからね。

金堂再建にあたっては耐震耐火のための鉄筋コンクリート構造にて復活。金堂だけでなく後述する大塔も防火優先で鉄筋コンクリート構造に再建されています。

面白いのが、先の中門は金堂よりも後に再建された建築物にも関わらず純木造だということ。中門は焼失のタイミングが悪く170年も手つかずだったように書きましたが、明治のドタバタが終わった後にもあれだけ再建に時間を要したのは、中門だけは純木造でないと宗教的意義が薄まるからです。

1934年に金堂が再建するタイミングでも中門が再建されなかったのは、再建に使う用材が金剛峯寺山林で育つのを待つため、という意味合いが大きかったといいます。神社仏閣建築ならではっぽい理由。

根本大塔

金堂の隣にあるのは壇上伽藍の中心的道場である根本大塔。それまでにあった三重塔や五重塔ではない、真言密教を広めるために弘法大師が考案した日本で最初の多宝塔です。

これ以前の仏塔建築に多宝塔という概念はありませんでした。ウン重塔というのは釈迦の骨である仏舎利を埋めた後に建てられてたストゥーパ、つまり卒塔婆を模したもので、大師の考案した多宝塔は釈迦の墓ではなく悟りの世界を立体的に表したものなのです。

本尊は金色の胎蔵界大日如来。周りには金剛界の四仏が祀られ、さらにその周りには十六大菩薩が描かれています。密教世界を再現した立体的な曼荼羅ですね。当時としては超巨大な建造物で、大師の在世中には完成しませんでした。その後、弟子の真然大徳の時代に出来上がった真言密教の根本道場におけるシンボルです。

六角経蔵

その名の通り六角形の、お経を納めるための蔵です。別名「荒川経蔵」。

1159年、鳥羽法皇の皇后である美福門院が法皇の菩提を弔うため建立しました。紺紙に金泥で浄写された一切経を納めたんですって。その維持費として紀州・荒川の庄(現那賀郡桃山町付近)も寄進したことが荒川経蔵の由来です。

マニ車みたいなもので腰のあたりについている取っ手をもって経蔵を一周して回すと一切経を一階詠んだのと同じ功徳が得られると言われています。

そんなことよりもといったらあれですけど経蔵よりもこれを建てた美福門院が面白い。美福門院を寵愛していた鳥羽法皇は、死後も一緒に過ごせるようにと生前から二人一緒に入れる比翼の墓を立てており、その墓を管理する比叡山の僧6名とも契約を済ませていました。しかしいざ法王が亡くなると美福門院は、死後は空海のもとで過ごしたいと高野山での埋葬を希望したのです。そうなると墓を守る僧は職を失うわけで訴えを起こす騒ぎになりました。これはすごい騒ぎで、美福門院の裁判もそうですが、当時の高野山は女人禁制ですからね。禁制をどこまで適応するのかと高野山側も非常に悩んだそうです。結果的に美福門院の希望が通り、自身の亡骸は高野山に埋葬されることになります。美福門院は史上初めて全骨が高野山に埋葬された女性となりました。鳥羽法皇の悲しみはいかばかりか。

壇上伽藍は見どころが多すぎて一日がつぶれますよ。満願のため奥之院へ行くのが目的だというのにどれだけここで時間を使っているのか。

高野山真言宗総本山『金剛峯寺』

高野山には、根本道場としての顔と、奥之院における死者の供養場としての顔の二つがあります。この二つ統括して運営しているのが金剛峯寺です。もともと金剛峯寺というのは一つの寺院を表す言葉ではなく、『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう』というお経より弘法大師が名付けられた高野山真言宗総本山という意味です。「一山境内地」と言って、いつの時代も高野山全体が金剛峯寺なのです。

いつでも探しているよ。どっかで畑氏の柄杓を。こんなとこにあるはずもないのに……。

正門

金剛峯寺駐車場から境内に入る門。1593年に再建されたこの中門は金剛峯寺の中で一番古い建物です。昔はこの門から出入りできるのは天皇・皇族・高野山の重職だけでした。現在でも一般の僧侶は右側にある小さなくぐり戸から出入りしているそうです。一般はど真ん中から参ります。

主殿

主殿のご本尊は弘法大師。大師が高野山の開創に取り掛かった頃は先の伽藍のみが「高野山」であり金剛峯寺でした。つまり現在の金剛峯寺は空海入定後、徐々に拓かれていったものです。

献灯をするとまだ四国にいるかのような気持ちになります。もう周りに遍路装束に身を包んでいる人なんてほとんどいないのに。

……一発、般若心経でもカマしますか。見ていろ一般参拝客。これがお遍ラーだ。

大玄関

主殿を拝んだら境内をふらっと散歩。ここは金剛峯寺の表玄関で、大玄関と呼ばれています。この門も、前の正門と同じで、天皇や皇族、高野山の重職の人たちだけが使用しました。一般の僧侶は昔は裏口から行き来していましたが、今は一般参詣用の入口を使っています。

この金剛峯寺という単体の寺院について話をするのは難しいですね。結局高野山全体の話になってしまうので。まあ次の本命の奥之院でいくらでも語る機会はあるでしょう。という事で奥之院に向かいます。正門から出て自転車を停めているところに戻ると

えええ~!!!

自転車に千円札が刺さっているじゃないですか。知らぬ間にお接待を受けていたようです。私がお遍ラーだとは知らなかったでしょうに、ただ自転車に載っている大荷物を見てカンパしてくださったんでしょうね。本当にありがとうございました。

満願の地『奥之院』

一の橋

さあとうとう高野山にやってきた主目的、伽藍と並ぶ高野山に大聖地の奥之院への参拝が始まります。その奥之院への玄関口ともいえるのがこの一の橋です。弘法大師が入定した御廟まではここから約2km。歩かせてくれますねぇ高野山。

この橋は高野山を流れている御殿川を渡る橋で、本来であれば「大渡橋」もしくは「大橋」が正式名称ですが、奥之院の入り口という事で「一の橋」と呼ばれることが多いようです。「一の橋」はこの付近の地名にもなっています。

古来より日本では三途の川を渡ることで此岸から彼岸へ渡るという信仰があります。日本ではというか、これはほぼ世界中で見られる死生観で、彼岸への渡川はあらゆる神話で語られています。それは北欧神話における、冥界と現世にかかる川「ギョッル」であったり、ゾロアスター教においては、善人と罪人を選別する「チンワト橋」であったりと様々。現実での川はしばしば異なる領域や世界の境界線とされます。死後の旅が異なる次元への移動だとすると、その遷移を示す境界線として川が組み込まれることは自然なことかもしれません。

奥之院の御廟へ行くにはそんな川を三つ渡る必要があります。この三つの川が現世・来世・浄土の境界を段階的に示しているのです。

出羽三山でもこんな話を聞きましたね。羽黒山・月山・湯殿山がそれぞれ現在・過去・未来を象徴していたのでした。お遍路でも献香の線香の数は現在・過去・未来を表す三本でしたし、宗教は「三」好きすぎる。父なる神・神の子イエス・聖霊の三つは一つであるというキリスト教の三位一体の概念もそう。

科学では解明できない死後の在り方に対する答えを用意するために、必然、現在と過去にも言及しないといけないのは道理なので現在・過去・未来の三つがどこでもついて回るのは自然なことかもしれません。誕生・成熟・死という三つの生命の周期も、宗教的な文脈では死後の世界への移行や再生を表すのに適しているのでしょう。

三つの要素がバランスと調和を取りながら共存するという考え方は実際美しいですし。例えば、地球・天・人間などの三者が調和して宇宙全体のバランスを取っているという天地人。挙げればきりがありませんね。

一の橋から御廟までは樹齢数百年の杉並木と墓標群の中を行きます。その数は20万とも30万とも言われており、墓石が建つ以前の、供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種である「一石五輪塔」ともなると埋没してているものも多く、とても正確な数は分かりません。

中の橋

二つ目の橋は中の橋。正式名称は手水橋といい、かつてはここで禊を行っていたといいます。橋の下を流れるのは金の河で、ここで言う金とは死の忌み言葉。つまりこここそが三途の川なのです。

現在は川とも呼べないような小さな流れですが、とにもかくにもここから彼岸に渡ることになります。そんな重要な場所なのですが大正時代には橋の下に軌道を通してトロッコを走らせていたとのこと。なんてことを。゚(゚^ω^゚)゚。

高野山で中の橋と言えばここか、中の橋駐車場ですが全然違う位置にあるので「中の橋」を待ち合わせにする場合はご用心。

橋を渡って今度は冥界エリアに入った参道を歩き御廟を目指します。

中の橋以降も相変わらずの墓石群。鎌倉時代以降はあらゆる階層や宗派を超えて人々が五輪塔や墓石を立て続けました。江戸時代の中期には約250から260程度の藩が存在していたとされていますが、その過半数にあたる藩主がここに墓石、或いは供養塔を立てています。

法然や親鸞の墓もあれば、関東大震災の供養塔もあり世代も幅広いです。レプリカですがキリスト教の碑さえあるのですから、大師信仰の懐の広さが伺えるというものです。

日本を代表する名だたる企業の墓も沢山ありました。これらは亡くなった従業員を供養するもので、当然ですが企業自体の墓ではありません。墓標に企業名が刻まれていると縁起の悪いイメージを抱きそうになりますがそういう気持ちを起こさせないのが奥之院の特徴かもしれません。

実際モリモリと育った杉並木によって陽射しは大きく遮られ、無数の苔むした墓石群で埋まっているのですが、それらは陰鬱ではなく静謐という表現が一番合うでしょう。

木漏れ日の美しさも大したもので、奥之院は和歌山県朝日夕陽100選に選ばれています。

最近では一の橋を通り過ぎて中の橋側の駐車場から参拝する人が多いとの事。私がそうしたから言うわけではないのですが、ぜひ一の橋からこの杉並木と墓石群の並ぶ参道を渡って参拝するのをおススメしますね。見どころだらけです。

織田信長を始め多くの戦国武将・大名の墓がズラリ。武将たちの、同盟や敵対、裏切りといった複雑な人間関係の中で生きてきた人生を思うと、今こうして同じ場所で奥之院で眠る姿にはホッコリとしますね。

御廟もあと少しという所に来ると参道も開けていくつか建物が見えてきます。

水向地蔵

まず目につくのが参拝客がお地蔵様に水をぶっかける姿。これは水向地蔵みずむけじぞうといって、玉川を背に並ぶのは地蔵菩薩、不動明王、観音菩薩。参拝客は死者の冥福を祈り、御供所で求めた水向塔婆を奉納し、水を手向けます。

御廟橋

さてようやく最後の橋です。御廟へ至るこの橋はその名も「御廟橋」、またの名を「無明橋」といいます。韻を踏んでいて気持ちのいい異名。無明は、煩悩を払うの意です。この橋を渡る前に水向地蔵に水をかけるのがならわしらしいですよ。

まずは橋を渡る前に一礼。御廟橋は36枚の石板でできており、裏面には金剛界の諸仏を表す梵字が刻まれており、この36枚全体でもう一つの仏を表します。つまり御廟橋は金剛界三十七尊を表現しているのです。橋が無かったころはこの下を流れる玉川を禊ながら渡ったそうです。熊野本宮大社へ行くのに川を渡ったのを思い出します。冬は大変だったでしょうね。

橋を渡ると撮影も禁止。ブロガー泣かせのエリアですがそれでこそ神秘性も保たれるというもの。ここからは文章のみで頑張ります。

燈籠堂

御廟は石段を登った先にある巨大な燈籠堂の奥に鎮座しています。私が堂内に入った時はちょうど読経供養のタイミングだったようで、本職の般若心経を聞きながら参拝することができました。

この燈籠堂は空海入定後に真然大徳が、建立。994年の大火の後は祈親上人が復興を目指して火を灯して以来、その明かりを現在まで残してきました。

この燈明は元々はお照という貧しい女性が父母の供養のために灯したものが始まりと言われています。お照の燈明と同じタイミングで灯したという、金持ちたちが自身の権威を示すために灯した一万もの燈明は、その驕りをたしなめるために弘法大師が吹かせた一陣の風ですべて消えてしまいました。その風の中でもお照の燈明は消えずに光り輝くままだったという「貧女の一燈」伝説があります。

この「貧女の一燈」と、白河法皇が献じた「白河燈」、芦田均首相の「昭和燈」不滅の燈籠として守られ続けています。現在も先祖供養や家内安全を祈願した燈籠が数多く捧げられており燈籠の数がスゴイ。

本来は御廟の拝殿ですが、燈明が寄進されて堂内が燈籠で埋め尽くされているため燈籠堂と呼ばれています。スケールのデカイ一番札所『霊山寺』本堂みたいですね。

御廟

燈籠堂から左に出て時計回りに移動すると裏手に回ることができます。そこに鎮座する檜皮葺の堂宇が弘法大師が今も瞑想を続けている御廟です。もちろんこの御廟に入ることはできませんが、正面から参拝する可能。御廟と燈籠堂に挟まれた廻廊にも香炉とろうそく台はあり、献灯献香ができます。お遍路と同じ作法で参拝をしました。

ただ、この御廟は外から見えているのは上屋で、中にもう一宇のお堂があると言われています。資料がないので実際はどうなのか分かりませんが。現在の御廟は1585年に建立されたとなっており、その後400年以上も誰も入らず、学術調査もされていないのですから仕方ありませんね。御廟の屋根を修理する職人ですら中を見ることは許されておらず、作業は手探りで行ったという話もあるくらいです。

一応、維那いな(高野山では「ゆいな」とも)と呼ばれる役職の僧は御廟の中を知っているんですけどね。維那高野山では、835年以来、約1200年にわたって弘法大師に1日2回のお食事を供える「生身供」という儀式が行われてるのですが、これは毎日、朝6時と10時半に御廟橋手前の御供所で作られた料理を大師の元に届けるという儀式。維那を先頭に、行法師と呼ばれる若い僧二人が白木に入った供物を担いで御廟に運んでいくのです。しかし御廟への入場は厳しく制限されており、内部に入ることが許されているのは高位の僧侶である維那だけ。また、維那に任命された者は、御廟の中の様子について他言してはならないという厳格な規則があります。御廟の中を知ることができるのは本当に維那ただ一人だけなのです。そんな秘密を誰にも話してはならないというのは大変という言葉ではいい表せないほど大変でしょうね。

地下法場

御廟からさらに時計回りに移動すると地下法場へと下る階段が見えてきます。この地下法場は燈籠堂の地下。弘法大師の御影が置いてあり、その向こうは御廟の地下。つまり御影の向こうには弘法大師が今も瞑想しているとされるのです。

同行二人、弘法大師と共に四国を周り今、結願の報告をするために大師の目の前にいる私。そう思って見渡すとこの地下の雰囲気はまさにーー

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いや、多くを語るのはやめておきましょう。写真も撮れないこの場は湯殿山と同じような禁足地。ここで感じられるものは実際に今後来られる方のお楽しみです。せっかく写真で見ることができない場所なのに私の主観で感想を言うとイメージが固定されるかもしれませんからね。

護摩堂

御供所

護摩堂のすぐ隣にある御供所。ここは奥の院で行われる重要な儀式を司るところです。弘法大師に1日2回のお食事を供える「生身供」の食事もここで調理されます。平安末期に弟子が御廟に奉仕するため、小さな庵を建てたのが始まり。御朱印もこちらで頂けます。

また隣の護摩堂との間には「嘗試地蔵あじみじぞう」という祠があり、生身供のための食事はいったんここに備えてから御廟に運ばれるのです。名前の通り味見をしているのでしょうか。

こちらが頂いた高野山の御朱印です。納経帳の最初の一ページ目に頂きました( ⑉¯ ꇴ ¯⑉ )

これにて満願! 本当にお遍路編が終わってしまいましたね、完全に(´;ω;`)

いや、お遍路とは単に八十八の札所を巡る事ではありません。お遍路は人生。四国を回っている内に味わった苦難や喜びは今後の人生というフィールドでも味わう事になるでしょう。今後も旅するように生きていきますよ。旅するように、が比喩じゃなくなる可能性もありますね。

日暮の高野山は下山も命がけ

帰りは中の橋駐車場に出て県道53号線から一の橋へ戻ります。

一の橋にて相棒回収。この時点で16:15です。

夜がすぐそこまで迫っています。

また北に抜ける道が狭くて狭くて。゚(゚^ω^゚)゚。。

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