【216日目】慰霊の地『ひめゆりの塔』

2023-4-8

根を張りたい気持ちを振り切って本日はゆーきさんに招いてもらった秘密基地を発ちます。めざすは那覇。その前に沖縄のとても興味がある場所なんですが、あまり気は進まないところに行きます。行かない選択肢はありませんが楽しむようなところでもないので。沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑、通称『ひめゆりの塔』という所です。

目次

さらば理想の秘密基地

旅をしているとただのソファがめちゃくちゃ寝心地がいい。雨風凌げれば天国、それがチャリダーです。

寝起きの一発にルートビアをキメます。なぜこんなにルートビアが口に合ってしまったのやら。ペットボトルでも美味しいんですけど、そろそろA&Wに行ってジョッキで飲みたいですね。

朝食を食べたら今日は出発します。秘密基地のネコ(タカマチくん)とも今日でお別れか。本当に何日でも居られるくらい快適な場所でした。沖縄の宿は出発するのに非常に意志力が要る。離れがたいんですよね。゚(゚^ω^゚)゚。

さらばタカマチ。めちゃくちゃくしゃみしていてずっと鼻提灯つくっていたネコだった……。

秘密基地のワクワクを、ドラム缶風呂を、美味しい料理をありがとうございました。特にカレーがマジで美味かったです。毎日食べたいですねあれは。

クソッ、まだまだここでゆっくりと遊んでいたい。あと一週間くらい。゚(゚^ω^゚)゚。
まあ秘密基地は逃げないのでまたいつでも再訪できるでしょう。二日間お世話になりました。またどこかで(๑•̀ᴗ- )✩

さて進路を那覇に向けて出発。道中スーパーで沖縄における私のガソリンを購入です。黒糖美味いんですけどこればっかりだと塩が摂れないんですよね。塩黒糖とかいう商品がありましたがビビってオーソドックスな黒糖に逃げてしまいました。また今度買いますか。

那覇に行く前にひめゆりの塔へ向かいます。戦争の資料館ですね。沖縄に来たからにはここも寄っておかねばという気持ちがあります。美しい自然も素晴らしいですが、歴史にフォーカスするのもまた沖縄を知るという事なのかなと。日本で唯一本土決戦が行われた地ですからね。

お昼ご飯はしまねこクレープというクレープ屋さんです。正確には昼飯までのつなぎですが。ここは秘密基地を出る前にゆーきさんから教えてもらったところで、ひめゆりの塔に行く前に160円で買えるクレープ屋さんがあるよと聞いていたのです。

クレープ2個購入。なんか沖縄のお守りをくれました。さんぐぁー、私を守ってくれ。

出発しようとしたらお店の裏口から出てきた従業員さん?が話しかけてくれました。旅の話を少しして名刺を渡します。従業員さんも山登りをするようでとても楽しく話せました。

山、第二部ではまだ登っていないですね。いい加減恋しい……。

ではカロリーチャージしてひめゆりの塔まで飛ばします。

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔到着。「ひめゆり」は、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校というふたつの学校の愛称です。両校を「女師・一高女」と呼ぶこともあります。

両校は同じ校舎にあり、校歌もひとつ、学校行事も一緒に行っていました。10代の生徒たちにとって学校とは、動強やスポーツにうちこみ、友達と過ごす楽しい場所だったのです。

1930年代から続く戦争の影響を受けて、次第に学校は軍事化していきます。1945年の沖縄戦では、240人の生徒と教師が日本軍の病院に動員されます。これが後に「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになった生徒たちです。

ひめゆりの塔はそこで散った方々の慰霊碑。入り口では献花用の花束が売られています。私も一束購入しました。花、初めて買ったかもしれません。

ひめゆりの塔のちかくにひめゆり平和祈念資料館があります。もちろんひめゆりの塔に献花したあとは資料館にもよります。うん、気分が沈みそうですね……。

ひめゆりの塔の前に来ました。塔というビジュアルではなく石碑ですね。

自然と背筋が伸びてしまう厳かな雰囲気。献花して静かに手を合わせます。

ひめゆりの塔前にあるのは沖縄陸軍病院第三外科壕跡。「壕」は本来、人工的に掘った横穴や深い溝を指す言葉ですが、戦時中は鍾乳洞も「壕」と呼び、日本軍の陣地や住民の避難場所に利用しました。

沖縄の地下には「ガマ」と呼ばれる鍾乳洞があり、大きさは数メートルから数千メートルとさまざま。その数は糸満市内だけで100を超えます。

ひめゆり平和祈念資料館

1983年1月、財団法人沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会は、ひめゆり学徒隊に関する資料を保管・展示するための資料館建設期成会を設置しました。

資料館の建物は、ありし日の女師・一高女を模して作られています。中庭の美しい花園は船上で散った少女たちの御霊に捧げられています。陽が差すと花がさらに鮮やかに映えてとても穏やかな気持ちになりますよ。館内は撮影禁止なので写真に収められないのが残念ですね。

ということでここからは文章多めで行きます。合間合間に資料館周辺の写真を挟んでクッションにしましょう(。◔‸◔。)

資料館前の石碑。『赤心』は偽りの無い心を表します。函館で知りましたね

ひめゆり平和祈念資料館、エントランスから無理。沖縄決戦前の女学生たちの集合写真がデカデカと貼られていて。戦争資料館系に抵抗覚えるのは小学生の頃、宿泊学習で知覧特攻平和会館に連れて行かれたせいですね。多感な時期にショッキングな知識を入れられたせい。

知識欲のおかげで興味はありますが気は進まないという複雑な心理状態。
……行きますか。

資料館入り口前

女師・一高女

ひめゆりこと女師・一高女は、沖縄で最初に設立された女子のための中等教育機関。入試の難関を突した生徒が県内各地から集まっていました。

女師は、教員養成のための学校で、生徒たちは、卒業後、教員として各小学校へ配置されました。
遠方や離島出身者も多く、何にでも真面目に取り組む気風のある学校でした。

一高女は、女子の普通教育を行う学校で、生徒たちは、自由でのびのびとした気風がありました。卒業後は、就職、家事手伝いを経て主婦になる人のほか、女師や、県外の学校に進学する人もいました。

ひめゆりの生徒たちが子ども時代を過ごした1930年代、日本は中国と戦争をしていました。国民の生活や経済活動は統制され、戦争に反対する意見は厳しく取り締まられるのです。戦争に勝つことが何よりも優先された時代でした。

当時の憲法では、主権は天皇にあり、軍隊のトップも天皇。天皇は神とされ、小学校から天皇を敬う教育が行われ、戦争に協力することは天皇と国に報いることだと教えました。このような社会や教育のもとで、ひめゆりの生徒たちは、単国少女に育っていったのです。

毎日の食事の前には、天皇の先祖の神とされた天照大神をまつる伊勢神宮のお札にお供えと礼拝をし(大麻礼拝)、皇族の短歌を詠みあげ(御製朗唱)、食事訓を唱えました。

太平洋戦争下の学校

中国との戦争が長期化するなか、1941(昭和16)年12月8日、日本はアジア太平洋戦争に突入。この年から学校も急速に変化していきます。戦争を勝ち抜くための鍛錬が重視され、生徒たちは決戦下の女学生としての自覚を求められました。女師・一高女でも、空襲に備えて防空訓練が行われるようになり、音楽会の演目には軍歌が増えていきます。

アメリカやイギリスといった「敵国」の文化を排斥する運動が起き、英語の授業もなくなります。労働力を補うため勤労奉仕が増え、節約が当たり前になり、生活はどんどん質素になっていきます。
兵士となって国のために命を捧げ、靖国神社にまつられることは最高の栄誉とされる社会で、生徒たちは、女学生でも戦争に勝っために国に尽くすべきだと考えていました。

「勝利の日まで」などの軍歌を歌い、「鬼畜米兵」「撃ちてし止まん」の標語で敵への憎しみをつのらせ、闘争心を大きくしていくのです。

ひめゆり最後の一年

戦争が次第に行き詰まり、1944(昭和19)年には、沖縄戦が確実な情勢となりました。沖縄には日本軍の部隊が続々と配備され、決戦の準備が始まります。7月に女師・一高女の校舎の一部が軍に提供され、兵士が校内に出入りするようになりました。生徒たちも、陣地構築作業や食糧確保のため農作業をすることが増え、例年通りの授業や行事はできなくなっていきます。
県外疎開が始まり、空襲で家を失う生徒が出ます。そんな落ち着かない日々のなかでもなんとかまだ教育実習や学期試験は行われていました。

終戦の年である1945(昭和20)年1月。地上戦に備えて軍による看護教育が始まります。沖縄戦が始まったのは、卒業式の直前のことでした。




同年3月23日、米軍の沖縄上陸作戦開始。


夜になって女師・一高女の沖縄陸軍病院への動員が決まり、生徒たちは寮に戻り急いで荷物をまとめました。西岡一義校長(兼女師部長)は深夜、集まった生徒たちを前に、

「平素の訓練の効果を発揮して、御国にご奉公すべき時が来た。ひめゆり学徒の本領を発揮して、皇国のために戦ってもらいたい」

と訓示しました。それから、生徒たちは、教師に引率されて、学校から約5キロ離れた南風原の沖縄陸軍病院に向かうことになります。


この日、沖縄陸軍病院に動員されたのは、主に15歳〜19歳の年齢に当たる上級生で、ほとんどがこの日寮にいた生徒たちです。離島出身の生徒は、沖縄本島での戦闘が予想されるなか、夏休みに荷物をまとめて帰省しましたが、学校に呼び戻されていました。また、下級生は、2月には自宅待機となりましたが、離島出身者は帰宅できず、寮に残っていました。そうなるともう彼女たちは、学校と行動を共にするほかありません。

自宅から通っていた生徒のなかには、学校に合流するため、家族と別れて陸軍病院に向かった人もいます。疎開は、主に子どもや高齢者が対象で、働ける年齢のの生徒の疎開は条件が厳しいものだったのです。希望しても学校の許可が得られず動員された生徒もいました。

彼女たちはこうして戦禍に巻き込まれていくことになります。

資料館出口

ひめゆりの戦場である沖縄陸軍病院は、兵隊のための病院。南風原の小高い丘にありました。丘には40近い壕が掘られ、その中に粗末な二段ベッドが並んでいました。

米軍との戦闘が激しくなると、壕は重症の患者でいっぱいになります。暗い壕の中は、暑く多湿で、むせるほどの悪臭、加えて患者のうめき声や叫び声が絶えませんでした。

水がほしくて尿を飲む人、痛みと空腹で当たりちらす人、傷口に湧いたウジ虫を取ってくれと訴える人、脳症で幻覚を見て暴れる人。患者の多くは十分な治療も受けられずに、次々と亡くなります。

生徒の仕事は患者の世話のほかに、水くみや飯上げ、死体理葬などもありました。それは弾が飛んでくる壕の外に出て行かなければならない、とても危険な仕事です。生徒たちは陸軍病院が攻撃されることはないと思っていたのですが現実はそこも砲弾が飛び交う死地でした。

沖縄戦開始

1945年3月23日、米軍は上陸に向けた作戦を開始します。沖縄の地は空襲と艦砲射撃で、あらゆる物が焼かれていきます。米軍は、26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島に上陸。この上陸をきっかけに、「集団自決」(強制集団死)も起こりました。

圧倒的な物量で攻撃してくる米軍。日本軍は、米軍の本土上陸を1日でも遅らせようと、上陸地点での決戦を避け、壕に潜んで長期戦にもちこむ持久作戦をとります。しかしこの作戦が沖縄戦を長引かせることになり結果的に戦闘は90日に及びました。



沖縄戦に配備された日本軍(第32軍)の兵力は約13万人、米軍の兵力は54万人。

4月1日、本島中部に上陸した米軍は南北に分かれて進軍し、4月21日までに北部をほぼ占領します。南下した米軍は、中部で日本軍と激しい攻防戦を行い、5月下旬、第32軍司令部のある首里を包囲します。

5月30日、第32軍司令部は摩文仁に撤退しました。兵力は約3万人に減り、米軍の一方的な攻勢に追い詰められていきます。

4月26日、米軍機の機関銃に撃たれて生徒の佐久川米子が死亡しました。生徒の最初の機牲者でした。生徒たちは友人の突然の死に、驚き、悲しむとともに、戦場の恐ろしさを思い知らされることになります。

6月23日、牛島満司令官の自決により、組繊的な戦面は終了します。しかし戦闘は終わりません。牛島司令官は、米軍の降伏勧告に応じることなく自決したわけですが、それによって沖縄戦が終わらなかったのは、司令官が残った部隊に対して「決して降伏せず、最後まで戦え」との命令を出したためでした。局地的な戦面はその後も続き、生徒や住民は米軍に捕まるまで戦場をさまようことになります。

ほこから

ケエエーーーーーーー!

ほこから

ほんまにさあ……


7月2日、米軍は沖縄作戦の終了を宣言。9月7日、嘉手納で降伏調印式が行われ、正式に沖縄戦が終結しました。

特攻作戦

日本軍は沖縄戦で、死ぬことを前提とした特攻での戦いを展開。

特攻と言うと、爆弾を積んだ飛行機や船による体当たり攻撃を想像しますが、沖縄戦でのそれは兵士が爆弾を抱えて戦車に飛び込む自爆攻撃や、竹槍や手榴弾を使った斬り込み攻撃でした。この特攻には沖縄の住民や学徒隊も参加させられました。

航空機による特攻は、九州や台湾から約1900機が出し、約3000人が戦死。米軍が占領した飛行場に強行着陸して米軍機を破壊する作戦も行われました。

ほこから

あ~知覧特攻平和会館の記憶がよみがえる

船による特攻は、小型ボートで敵艦に体当たりをする部隊が海岸沿いに配備されましたが、ほとんど出撃できませんでした。海上特攻の戦艦大和は、待ち受けていた米軍機の集中砲火を浴びて鹿児島の西方で撃沈されました。

ひめゆりの塔周りに生えたデイゴ。春に咲くデイゴの花は見事に咲くほど大きな台風が来ると言われています。1945年春、この花が咲く頃に沖縄戦は始まりました。

ひめゆり学徒の収容

この戦争で沖縄軍病院に動員された生徒・教師240人のうち136人が死亡しました。6月18日に生徒たちに解散命令が出されたのですが、それは戦争の終わりを意味するものではありませんでした。

解散命令とは学徒隊を解き、各自自らの判断で行動しろというほったらかしです。命令が出された後、生徒は避難壕であるガマから追い出されて戦場を逃げ惑う事になります。

死亡者の86%にあたる117人は、解散命令後に死亡、または行方不明となりました。戦地に生徒を放り出すことになった解散命令は、結果的にその後の犠牲を飛躍的に増やしたのです。女師・一高女では、沖縄陸軍病院に動員された人以外にも、91人の生徒と教師が沖縄戦で亡くなっています。

戦場をさまよう生徒たちは「絶対に捕虜になってはいけない」と考えていました。捕虜になるのは恥だと信じ、その上「米兵は男を八つ裂きにし、女をもてあそんで殺す」と聞かされていたためです。

米兵に取り囲まれた瞬間、多くの生徒は「死ななくては」と思いましたが、一瞬の隙を逃すともう死ぬことはできませんでした。捕まっても米軍に殺されないことがわかると、ほんの数日前まで生きていた学友のことが悔やまれました。

第四展示室『鎮魂』

ガジュマルの木

ひめゆり平和祈念資料館で一番しんみりしたのは第四展示室『鎮魂』ですね。ここは壁面に犠牲者200余名の遺影がかけられています。一人ひとりわかる限りの情報が遺影と共に書かれているんですよ。何部に所属していてどんな趣味を持っていたかとかね。

この部屋では「別れの曲(うた)」という曲が流れているんですけど、これは沖縄戦で亡くなった学友や恩師の鎮魂のために慰霊祭で歌われてきた歌なのです。沖縄戦の前年、詩人で陸軍少尉の太田博が、女師・一高女の卒業生のために詩を書き、音楽教師の東風平恵位が曲をつけて生まれました。1945(昭和20)年の卒業式で歌うはずでしたが、戦場の卒業式で歌われることはありませんでした。

その曲が鎮魂の部屋で流れているのはめちゃくちゃしんみりします。なんだか曲調が讃美歌めいていて銀河鉄道の夜のサウザンクロスに到着したシーンを思い出してしまいました。

沖縄戦は、一般住民を巻き込んだ地上戦でした。約3か月の戦闘による死亡者は、日米合わせて20万人以上。そのうち12万人余りが沖縄県民でした。日本軍は兵力不足を補うため、10代の生徒を含む県民を戦場に動員。さらに日本軍が南部に撤退したことで、住民は米軍の攻撃に巻き込まれ多くの犠牲を出しました。日本軍がいるのであれば米軍はたとえそこに住民がいても、徹底した砲爆撃を加えたからです。その上日本軍は住民の壕や食糧を取り上げたり、住民をスパイ扱いして殺害するなどしました。

一般住民の戦死者の多くが、日本軍の南部撤退後の時期に亡くなっています。実に沖縄県民の4人に1人が命を落とすという死亡率。日本軍による県民の戦場動員と持久作戦、米軍の激しい攻撃は、県民の犠牲を大きくしたのです。

ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念資料館

終戦翌年、1946(昭和21)年4月5日にひめゆりの塔は沖縄戦で亡くなった女師・一高女の教師と生徒を慰霊するため建てられました。

ひめゆり平和祈念資料館は戦後40年以上たった1989(平成元年)に開館しました。元ひめゆり学徒たちは戦後自分の戦争体験を積極的に語ろうとはしませんでしたが次第に「戦争体験を語り継ぎ、平和の大切さを訴え続けることこそ、亡くなった人たちへの鎮魂になる」と考えるようになったのです。

開館後、元ひめゆり学徒たちは、直接体験を伝えるだけでなく、資料館のあらゆる仕事を行い、自らの手で資料館の運営を続けてきました。開館から30年を経て現在その活動は戦後生まれの職員に引き継がれています。

うん、来て良かったなと思いました。精神力はゴリゴリ削られますが日本人としてね。ここは一度見てみる価値がある場所だなと感じます。戦争資料館系は子供の頃のトラウマでしたが……鹿児島に戻ったら再び知覧特攻平和会館行ってみますかね。

喜屋武岬

お次は沖縄ほぼ最南端の岬『喜屋武岬』に参ります。読みは喜屋武(きゃん)です。

ほこから

キャンて

沖縄の地名も北海道に負けず劣らず訳が分かりませんね。その読み方が面白くもあるのですが。毎回読み方クイズを自分でやって青看板のローマ字読みで答え合わせしています。沖縄、城を「グスク」と読むのが初見殺し過ぎる。

閑話休題。

ほぼ最南端と言いましたが本当の最南端は喜屋武岬よりも南に400mほど飛び出た荒崎です。喜屋武岬は突端に行きたいわけでは無く単にひめゆりの塔から近く、また戦争の歴史とも関係のある場所なので今回寄ろうと思います。岬にしてはアップダウンもあまりないのも高評価。

あ~沖縄って感じの風景ですね( ⑉¯ ꇴ ¯⑉ )
追い越した少年からこのあとエールをもらいます。サンキュー少年。

沖縄情緒爆発。本当に日本か?と思うような景色が多いですねこの地は。

沖縄の異国感は本当に素晴らしいです。北海道でもこういう魅力を感じましたね。

茂みに囲まれた細い道をしばらく進むといきなり開けて青空が見えます。最高の演出。

到着しました。これが喜屋武岬! めちゃくちゃ素晴らしいじゃないですか!
岬はやはり良いものですね。相棒を添えてパシャリ。

沖縄本島の南部、糸満市に位置する喜屋武岬は、沖縄戦跡国定公園に指定されています。戦争関連の場所なんですよねここ。

岬なのに命の危険を感じない。なんて優しく壮大な美景か。ちょっとした寄り道でしたけどいい目の保養になりましたね。

180度のパノラマが広がる絶景ですがここ喜屋武岬は、米軍に追い詰められた人々が、自ら命を絶つという悲惨な歴史が残っています。それつながりでここは心霊スポットとも言われているのですが……

ひめゆりの塔に言った後だとそういった俗っぽい騒ぎ方をする気にもなりませんね。ただ悲しいことに今でも自殺者が絶えないのだとか。

ハブには注意。北海道におけるクマと同じノリ。

招かれたお宅は……?

それじゃあ再び那覇に向かって漕いでいきますか。ただ今日は糸満市で行動終了しますが。TwitterのフォロワーであるBさん宅にお招きいただいたのでお邪魔させてもらおうと思います。

休憩していたらおじさんからブラックコーヒー頂きました。黒糖と一緒に飲んだら美味いのでは?ありがとうございます( ⑉¯ ꇴ ¯⑉ )



……黒糖を口に含んでブラックコーヒー飲んでみましたけど全然美味しくないですね。別々に口に入れましょう(。◔‸◔。)

道中たこ焼き屋発見。もう寄り道せずにまっすぐ目的地に向かうつもりでしたがたこ焼きの誘惑に勝てませんでした。300円は安い。

兵庫大阪の県境付近で見つけた10個220円のたこ焼きを思い出す。またあのたこ焼きが食べたい。

あわせて読みたい
【1日目】スタート地点神戸!撮れ高たかすぎるのも問題です(2022-5-19) フェリーの中からおはようございます! 現在時刻は7:30 昨晩、宮崎から出港したこの船はいま神戸にいます。  日本一周チュートリアルも終えて本日が真のスタート。 ドキドキワクワクの日本一周ついに開幕です!!!!!

これ初日の話だったのか( ´艸`)

17時というおやつの時間にも夕食にも微妙な時間帯の間食。そういうのが一番美味い( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )

たこ焼きはトロトロ系でしたね。嫌いじゃない。たこ焼きは全部好きですけど好みに序列をつけるなら

モチモチ>トロトロ>カリカリ タイプのたこ焼きが好みですね。

日が暮れる前には目的地に着きそうです。傾斜がきついので自転車から降りてBさんからもらった住所にトコトコ歩いて向かいます。そうしてたどり着いたのが

こちら!

ハァ!?

ほこから

やすぼぅハウス!?



やすぼぅハウスは沖縄の伝説的なゲストハウス、というかライダーハウス? というかただの民家なのですけど、家主さんが厚意で無料開放しているお宅なのです。この旅中、旅人からもSNSでも何度名前を見たことか。この家の看板を見た瞬間「え!? 知ってる!!!」とめちゃくちゃ驚いてしまいました。

何が伝説なのかというと居心地が良くて旅人が何十人も集まる場所、という事もあるのですが、ここは去年でそういう旅人の宿的なことはやめたと聞いていたんですよね。かつてあった旅人の聖地という意味で伝説と表現したわけですが、招かれた住所に言ったらその聖地が現れた私の驚きと言ったらですよ。

ほこから

もうやっていないんじゃないの!?

首をかしげているところにちょうどBさんがお仕事から帰って来ました。

Bさん

はじめまして、Bです~

ほこから

はじめまして、今日はありがとうございます!

ほこから

招かれた先がやすぼぅハウスでめっちゃ驚いたんですけど、え、Bさん住人なんですか? ここはもうやっていないんじゃ……

Bさん

そうそう、去年の11月くらいに閉めたんだけどその後も俺は出ずにずっといるんだよね。ただ近くを通った旅人を捕まえてはこうやってたまに招いているよ

ほこから

マジかよ

閉まる前に行きたかったなと思っていた場所にまさか知らずに招かれていたという縁。旅をしてからこんなサプライズばかりです。なんか縁の糸がとんでもないつながり方するんですよね。

Bさん

飯食った? 食ってない!?
じゃあ何か簡単に作るから座っていてよ

お家に上がった瞬間、料理を開始したBさん。「まあくつろいでよ」とめちゃくちゃもてなしてくれるます。

Bさん

充電とか大丈夫? そこら辺のコンセント使っていいからね~

めちゃくちゃもてなしてくれます。その姿はほぼ家主。ちなみに家主さんのやすぼぅさんは仕事中で21時くらいに帰って来るとのこと。

Bさん

ご飯できたよ~! 食って食って!

そうして作ってもらったのがこちら。

めちゃくちゃご馳走!。゚(゚^ω^゚)゚。

ほこから

餃子うま! 野菜炒めうま!

米が一瞬でなくなります。めちゃくちゃ美味い!
沖縄で出会った旅人全員料理が美味くて笑うんですよね。結家しかり秘密基地しかり。

美味い飯で満腹になる。こんな幸せはありませんね。Bさんご馳走様でしたm(__)m




Bさんもかつては日本一周者。旅の話をしながらお酒を飲んでいました。

21:30頃にやすぼぅさん帰宅。ご挨拶したら飲みながら今度はやすぼぅさんとお話です。Bさんは仕事でめっちゃ眠くなったという事でやすぼぅさんの帰宅と入れ違いで就寝しました。

私の就寝時間はこの日は3:00です。

やすのぅさんド気さく。時間を忘れて話し込んでしまいました。やはり自宅に何日も2,30人集めるオーナーは違いますね。というか沖縄で旅人招くような方々はみんなそんな感jじ。コミュニケーションを楽しむ天才ですね。

沖縄は本当にいいところだなと改めて思いました。









よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次