さあいよいよ始まりますヴィパッサナー瞑想合宿。合宿編では10日間の合宿で実際に行ったことを詳らかにしていこうと思います。合宿に参加しようとした動機や施設に向かうまでをサッと描いた準備編はこちらから。
ただ合宿中は話すこともメモを取ることもできない「聖なる沈黙」という縛りの中過ごしたので、記録できるものが無く、時系列がやや不確かな部分があります。この講話はこの日ではない、など。
聖なる沈黙
コースの開始から最終日の午前中まで身体・言語・精神の沈黙を守らなくてはならない。ジェスチャー、手話、メモ書きなど、一切のコミュニケーションは禁止
また10日間は全て決まったスケジュールの下で行動していました。その時間割を以下に示します。
時間 | 活動 |
04:00 | 起床 |
04:30 – 06:30 | ホールまたは自分の部屋で瞑想 |
06:30 – 08:00 | 朝食と休憩 |
08:00 – 09:00 | ホールにてグループ瞑想 |
09:00 – 11:00 | ホールまたは自分の部屋で瞑想 |
11:00 – 12:00 | 昼食 |
12:00 – 13:00 | 休憩および指導者への質問 |
13:00 – 14:30 | ホールまたは自分の部屋で瞑想 |
14:30 – 15:30 | ホールにてグループ瞑想 |
15:30 – 17:00 | ホールまたは自分の部屋で瞑想 |
17:00 – 18:00 | ティータイム |
18:00 – 19:00 | ホールにてグループ瞑想 |
19:00 – 20:15 | 講話 |
20:15 – 21:00 | ホールまたは自分の部屋で瞑想 |
21:00 – 21:30 | ホールにて質問 |
21:30 | 就寝 |
時間割を見ると休憩と食事以外の時間はほぼ瞑想だということが分かりますね。瞑想経験全くのゼロである私がいきなりこんなスケジュールの瞑想合宿に参加して大丈夫なのかという不安も少しはありました。そんな私が実際に合宿に飛び込んでみてどうなったか。その記録をご覧ください。
※この記事はマジで長いです
【1日目】始めが肝心。ヴィパッサナー瞑想合宿開始
鐘の音で起床
カンカンカン!
という鐘の音で起床。いよいよヴィパッサナー瞑想合宿が始まりました。めっちゃ眠い。
さっそく失敗に気づいたんですけど私がもって来た時計類が使い物になりません。元々はアップルウォッチを持ってこようとしていたのですが、スマホが没収されるのであればスマートウォッチ系もダメだろうと思って100均で腕時計と目覚まし時計を買って持って来たのですが間違いの始まり。
まず目覚まし時計の方は針の音がうるさいのです。一言もしゃべらないで集団生活を行うヴィパッサナー瞑想では時計の針の音も雑音としてかなり気になります。人の迷惑になりますからとても使ってはいられないと思い即電池を抜いて置物と化してしまいました。
まあ時間は腕時計を見ればいいやと思って昨日は寝たんですけど、腕時計もまた時計としての役目を果たすには力不足でした。夜中目が覚めた時に暗くていま何時か分からないんですよ。これではがっつり二度寝できるのか、もう起きていないといけないのかが分からず非常に不便。しかしない物ねだりはできないので体内時計を信じて10日間過ごさないといけません。バックライト付きのデジタル時計を用意するべきでした。スマホを目覚まし時計に使いがちな現代人らしいミスでしたね。
いきなり反省から始まった一日目の朝。顔を洗って瞑想ホールへ向かいます。4時に起床して瞑想開始が4時半ですから、猶予は30分です。今日はスッと起きられましたけどこの30分間で二度寝しちゃいそう……。
朝一の瞑想
瞑想ホールでは2時間のアーナパーナ瞑想を行います。昨日教えてもらったばかりの鼻の呼吸に集中する瞑想法です。
昨日の脳が覚醒した状態で行った時もイマイチよく分からなかった瞑想ですが、今は寝起きということもあって余計に集中ができません。4時に起きて30分ちょっとで再び目をつむってしまうと睡魔に即やられそうになります。瞑想の姿勢意地のために何とか寝落ちはしないように耐えますが。瞑想者同士の間隔はそんなに広くないのでもし寝て倒れたら誰かしらにぶつかってしまいます。
朝の瞑想は自室で行っても良いようなので明日はそうしましょうかね。
そうして睡魔と戦ったり、一瞬意識が飛んだり、集中が切れて他の事を考えたり、落ち着きのない心で呼吸に注意をむけながら目をつむっていると終了のチャイムが鳴りました。
2時間、長い……!
お楽しみの朝食タイム
朝の瞑想が終わったらホールから食堂へ移動して朝食を摂ります。食べることはこの瞑想合宿唯一の楽しみと言ってもいいかもしれません。
食事は米に汁物とスープを自分でよそうバイキング形式。肉類が禁じられているので料理はどれも精進料理スタイルでした。たくさん食べたい気分ですが、ドカ食いするタイプの料理ではないと思ったのでほどほどにしておきます。
パンにトースターもあったので明日はトーストをいただきましょうか。ジャム、砂糖、コーヒー粉、ティーパック、牛乳、豆乳と飲み物や調味料類は豊富なので意外と飲食は楽しめそうです。
ホールでグループ瞑想
8時からはホールでのグループ瞑想。この時間は全員ホールにて瞑想を行わなくてはいけません。
朝食も終えて眠気もなくなったことで集中しやすくなっていました。それでも呼吸に集中することをたびたび忘れて意識がどっかに行ってしまうんですよね。余計なことを考えずにいる事の難しさよ。
昼食
11時になったら昼食。朝食が6時半ですから3時間半くらいしか食事の間隔があいていません。しかし合宿中は夕食が無いのでここでしっかり食べておかねば。
朝食と同じ一汁一菜スタイルの食事ですが結構おいしいことが分かったのでご飯大盛で食いだめしておくことにします。毎日食ってばかりいた自転車日本一周を終えてまだ一週間もたっていないので胃袋は未だに大きいままです。
食事が終わったら一旦自室に戻ってベッドでゴロゴロします。昼食時間は2時間あるので結構長い事休めるんですよね。
しかしスマホも無いので時間を潰す娯楽に乏しいのが悩みどころ。走ったりといった運動も禁止されていますからね。ウォーキングくらいは認められていますが今日は散歩の気分でもないのでちょいと昼寝しようと思います。
お昼のグループ瞑想
13時からは4時間の瞑想。本当に毎日ガッツリ瞑想で一日目から驚きますよ。中々に長いですが段々と体感時間が短くなってきている実感があります。余計なことに気を取られないようになると時間の進みも早くなるのかもしれません。
ティータイム
17時はティータイム。食堂でフルーツが振舞われます。一日目はバナナとみかん。意外と胃に溜まるので夕食といっても差し支えないですね。
ティータイムですから紅茶も頂きます。10日の瞑想合宿というと刑務所暮らしのような物をイメージしていましたがスマホと言葉がなくらいで本格的に求道者的な苦痛を味わうことはなさそうです。紅茶に入れる砂糖もあるので甘味に飢える囚人のような事にはならなさそう。
個人的には豆乳が飲めるのがうれしかったですね。豆乳、好きなので。無調整豆乳であまり甘みのないタイプの物なんですけどなぜか普段より甘みを感じました。
感覚が鋭敏になっている……?
かもしれません。
講話
18時から1時間瞑想した後は音声テープで講話を聴きます。ヴィパッサナーの精神やブッダの教えについてのお話が約1時間半流されます。
ここまでずっと瞑想してばかりだったので話を聞くというのは刺激があって楽しかったですね。
初日の講話は確かこんな感じ。
一口に瞑想と言っても様々な種類があります。皆さんの中には普段から何かしらの瞑想法を取り入れている方もいるかもしれません。しかしこのヴィパッサナー瞑想合宿中は一切やめてください。
馬に乗っている時に、別の馬を勧められたからと言って二頭にまたがっては危険なのは自明のこと。同じく船に乗っている時に、別の船を勧められたからと言ってそちらの船にも足を乗せていては危険です。
「二足の草鞋を履くのは危険。ここでは一所懸命にヴィパッサナー瞑想に励みましょう」という話なんでしょうけど
今週の週刊少年ジャンプのこのコマが思い出されて一気に集中が乱されました。そんなタイミングよく二頭の馬にまたがったキャラ出る?
他には
初日を終えて夕食が無いことには気づいたかもしれません。そうすると夕食の分もお昼に食べておこうとご飯をたくさん盛る人がいますが止めておきなさい。満腹になっては瞑想に集中することができません
というお話もありました。
まんまとやっちゃってたね
ドカ食いしてしまいました。先回りして説教が用意されているとは、昼食のドカ食いはヴィパッサナー瞑想あるあるだったようです。明日からは少しだけ控えますか照
ようやく就寝
講話が終わったら21時まで瞑想です。大体30分ほどですね。一回の瞑想時間としてはここが最も短いです。21時になったら自室へ戻ります。
瞑想に関する質問がある人は21時半まで指導者へ質問をすることができます。聖なる沈黙中でも指導者とだけは言葉を交わしても良いのです。私はまだ「何が分からないかも分からない」状況なので質問も浮かびませんでした。早く部屋に戻って寝ることにします。
自室に戻ったら洗面道具をもって流し場で歯磨き。みんな一斉に歯を磨くので流し場が混みますね。歯磨きで睡眠時間も削られますし、明日からはティータイム休憩中に歯磨きを済ませておきますか。それ以降飲み食いはしませんからね。
【2日目】心がさ迷う瞑想中
起床
再び鐘の音で起床です。眠い。
よく考えると21時半就寝4時起床って6時間半しか睡眠時間が無いじゃないですか。通常の生活であれば8時間は寝たい私にとっては少ない睡眠時間。この生活続けられるか二日目にして不安になってきました。
今日は自室で朝の瞑想
昨日はホールに行って瞑想をしましたが朝一の瞑想は自室で行ってもいいので今日はそうします。日が出る前から外に出るのは寒いですからね。
ベッドに敷いた布団の上で瞑想することは許可されていないので、布団をたたんでその横で瞑想します。しばらく瞑想していましたが上手くできているか分かりません。また眠いことには変わりが無いので集中よりも睡魔との戦いになるのは昨日と同じでした。うーん、自室で瞑想はあまり集中できないかも。
朝食
二時間の朝の瞑想が終わったら食堂で朝食。昨日の昼食からだいぶ時間が空いているので待ち遠しかったです。
昨日講話で「あまり食べすぎるな」というお話があったので腹7分目くらいの量にしておきました。食後3時間ちょっとでまた昼食なので朝食はそんなにたくさん食べる必要もありません。
心がさまよう瞑想中
瞑想ホールで引き続きアーナパーナ瞑想に励みます。今日は少しステップアップして、鼻の呼吸に気づくだけでなく、鼻と上唇の両端を結んだ三角のエリアに発生する感覚を観察するように指導が入りました。
ここに発生する感覚は何であろうと気づいて観察するようにとのこと。それは痒みでも暖かさでも呼吸が当たる感覚でもなんでもです。これが意外と難しくて驚きました。このエリアに呼気が当たっていることにすら気づくのに時間がかかりましたね。
単純に瞑想に集中している時間が短いせいもありますが。気を抜けば他の事を考えて、心があっちに行ったり、こっちに行ったり。講話ではこのことを「心がさ迷う」と表現していました。
その表現通りにさ迷ってばかり。余計なことを考えないというのは中々に難しいことです。
鼻と上唇の間に集中
・・・・・・
ソシャゲのログインボーナス切れたな
……いかん、集中せねば
アーナパーナ瞑想……
・・・・・・
「アーナパーナ」と「ロールパンナ」で韻が踏めるな
・・・・・・
ヤバい! 他のこと考えてた!
心はすぐに何かを生み出してしまいます。考えないことの難しさよ。
ティータイム
昼食や長い瞑想を終えてようやく17時のティータイム。またバナナとみかんで紅茶を楽しみます。
甘味成分はこのティータイムで飲む砂糖入りの紅茶ですね。朝食昼食でも飲めるのですが食事の時は緑茶を飲んでいるので。
ただ湯呑が小さいのが気になります。大きなマイコップをもってくればよかったと少し後悔しました。古い生徒と呼ばれる二回目以降の合宿参加者はさすがで、マイコップどころか自前の水筒にお茶やらコーヒーやら詰めていましたね。
ちなみに古い生徒は正午以降、食事ができないという縛りがあります。牛乳も固形物カウントなので飲んじゃダメなようです。すげぇ……。
・・・・・・
間食を済ませたら宿泊棟に行って歯磨き。もうこの日はティータイム以降に食事をすることが無いので、いま歯磨きしておけば21時に瞑想が終わった後すぐ就寝することができます。
講話
講話の時間は落ち着きますね。話を聞いて、思考していいというのは人間にとっては大きな喜びなんだなという事を知ることができました。
講話の内容はこんな感じです。
北インドのサーヴァッティの町にはブッダのいる大きな瞑想センターがありました。沢山の人が瞑想をしたり説法を聴くためにセンターに通っていましたが、その中の一人の若者はブッダの説法を聞くばかりで教えを実践するそぶりはみせませんでした。
ある日、若者がブッダへ質問します。
「先生、この瞑想センターには解脱を果たした人、解脱はしていないが進歩した人がいます。その一方で私のように全く変わっていない人もいます。これはなぜなのでしょう?
先生は完全に悟りを開いた偉大な力を持つ慈悲深いお方です。その力をもってすべての人を解脱させて頂けないものでしょうか?」
舐めるな小僧
若者があまりにも分かりやすい愚か者にデザインされていて作り話感が強すぎる。こんな質問しようとすら思わないでしょう。゚(゚^ω^゚)゚。
ブッダは優しく笑って答えました。
「あなたはどこで生まれましたか?」
「B国です」
「ということはここA国からB国までの道には詳しいですね?」
「詳しいです」
「では友達からA国からB国までの道について聞かれた時に隠し立てしますか? それとも詳しく教えてあげますか?」
「何も隠し立てすることはありません。詳しく教えてあげます」
「ではお友達にA国からB国までの道を教えてあげたとして、教えた途端にお友達はB国に瞬間移動しますか?」
「まさか。説明を聞いた後に自分の足で道を歩かなければB国へはたどり着けません」
「そういうこと!」
ブッダは続けます。
「私が教えているのは悟りへ至るための道筋です。実際にその人が悟りに至るためには自分の足で歩いてもらわなくてはなりません。説法だけ聞いても解脱はできないのです」
これは本当、なんでもそうですよね。
自己啓発本よんだりYouTube見るのもいいですけど、やりたいことがあるならとにかくやれと。耳触りの言い説法を聞いているだけじゃなくて実際に自分の足で歩き始めねば。
この精神は忘れないようにしたいです。
就寝
21時に瞑想が終わって自室に戻ったら即就寝。やっぱりティータイム休憩時間で歯を磨いておくのは効率がいいですね。ロスタイムなく睡眠に時間を使えます。
しかし寝つきが悪い。
一日中運動もせずほとんど目をつむっている状態なのでいざ布団に入っても眠気が来ないんですよね。これは予想外でした。
【3日目】アーナパーナ瞑想に慣れてくる
起床
結局、前日は寝付くのに2時間以上かかった気がします。4時に起きるのが辛かったです。この生活リズムに適応するのはかなり難しいですね。
とりあえず顔を洗って、4時半になったらまた自室で瞑想を行います。しかし寝不足気味というのもあって途中で眠ってしまいました。朝の瞑想が終わったチャイムで再び目覚めます。
自室での瞑想は楽ですけど、楽をすることが目的ではないですからね。緊張感を持つために今後は全ての瞑想はホールで行うことにします。
朝食のお供発見
お楽しみの朝食タイム。この日に初めて梅干を食べてみたんですけどめちゃくちゃしょっぱくてビックリしました。
もうめちゃくちゃしょっぱい!
塩の塊を食べているのかと思いましたね。梅干しひとつで茶碗一杯のご飯は食べられるくらいの塩気。かなり好きです。
基本味薄めの精進料理がメインなのでそれをおかずにご飯を食べる気にはならないのですが、この梅干しがあればいくらでもお米を食べられます。まあ食い過ぎるなと講話で言われているので朝飯はセーブしておきますが。
感覚に気づけるようになってきました
食事が終われば後は瞑想です。3日目ともなるとアーナパーナ瞑想にもだいぶ慣れてきました。最初は気づけなかった呼吸の感触が良く分かります。
呼吸による感触だけでなく、鼻から上唇に発生する感覚にも気づくようになりました。
はじめは
そんな感覚なくね!?
という気持ち。他の部分のかゆみだったり、吹いてきた風の寒さだったりの刺激の方が強いので、集中していないと気づけないんですよね。
たまに「ジーン」とした感覚を感じることもありましたが、これは正しい感覚なのか? という疑念が出てきます。あまりにも何も感じ取れないから自分が偽りの感覚を生んでいるんじゃないかって。ようやく感じた感覚すら疑わないといけないなんて何が正しいか全くわからなくなります。
昼食休憩で風呂
合宿中の風呂についても書いておかなくてはいけませんね。お風呂は2時間の昼食休憩中に入ります。
天草青年の家には大浴場があるので、事前に浴場のドア前にかかっている入浴希望表に名前を書いて順番に入っていきます。ここでは一度に10人は入れるのでだいたい希望通りの時間帯に入浴できました。
私は食事前に入りたいので午前の瞑想が終わったら風呂場に直行していました。
お風呂は大きくて非常に快適でしたね。銭湯に来ている気分でした。
合宿に参加する前は自転車での日本一周をしていたので毎日は風呂に入れない生活をしていましたから、制限があるもののこの合宿生活がとても贅沢に感じます。
洗濯は手洗い
洗濯はどうするのかというとバケツで手洗いです。洗剤は自前で皆さんやっていましたね。
手洗いだということは知っていたので、私は洗濯しなくてもいいように10日分過ごせる着替えを持ってきました。冬に手洗いで洗濯は大変ですからね。スマホも無いので晴れる日も調べられませんし。
ティータイムにリンゴが登場
お昼の瞑想も終えティータイム。果物が食べられるこの時間ですがいつものメンツに青リンゴが追加されていました。私は林檎大好きなのでうれしかったです。
しかし厄介なのがこの林檎、そのまま提供されています。しかも一人一個ではなく一人半分ずつ。おいてあるナイフで半分に切らないといけません。
その手間自体はなんてことはないんですけど、半分に切って皮をむくとなると後ろがつかえてしまいます。急いでしまってだいぶ皮を厚く切ったリンゴ片ができてしまいました。これは明日以降やりかたを考えなくては。
【4日目】”ヴィパッサナー”の始まり
食堂に見慣れぬ看板が……
いつものように寝ぼけ眼で朝2時間の瞑想を終え朝食タイム。普段通り食事を終えて食堂を出ようとしたら、食器返却口ちかくに看板が立っていることに気づきました。
本日はヴィパッサナーの日です。午後のグループ瞑想には全員必ずホールに集まってください。
とのこと。
今日からヴィパッサナー瞑想の始まりです
午後のグループ瞑想の時間になるとヴィパッサナーの日について説明がありました。なんと今日からヴィパッサナー瞑想が始まるとのこと。
今までやっていたのはアーナパーナ瞑想。準備段階は終わったということです。
ヴィパッサナー瞑想でやることはアーナパーナ瞑想の拡張版です。アーナパーナ瞑想では鼻から上唇の範囲の感覚を観察しましたが、ヴィパッサナー瞑想ではその対象を全身に広げます。
最初は頭のてっぺんに意識を集中。そこで感じた感覚は何であれ観察します。痛み、かゆみかもしれないですし冷たい暖かいといった温度かもしれません。とにかく何でもです。感じたらそれを観察します。まさにアーナパーナ瞑想でやっていたことですね。
頭に感覚を感じるようになったら今度は観察する範囲を徐々に顔に持ってきます。頭頂部からおでこ、眉、目、鼻、口、頬と徐々に下がって行ってついには足の先まで意識を巡らせて観察を行います。
これ頭部は意外とすんなり微細な感覚を感じることができました。でも首に入った途端難易度が上がりましたね。さらに集中が必要そうです。まあそれはおいおい慣れていくとして一番問題なのが……
これからのグループ瞑想の一時間は姿勢を変えない
という縛りが追加されたこと。一度足を組んだら一時間はそのまま。目も開かず、手も動かさない。まさに不動の姿勢を貫くことになります。これはかなり厳しいですよ。
30分越えたあたりで足が悲鳴を上げ始めました。あとはもう微細な感覚に気づくどころではなくただただ痛みに耐えて一時間が経過するのを待つのみ。集中も何もあったもんじゃありません。痛みに気を取られると体感時間が長くなるので
もう一時間半は経ってるだろ!
とずっと思っていました。プチ拷問なんですよね不動の縛りは。
これは早いところ適応しないととても最終日まではもちません(^-^;
【5日目】今日でようやく半分の行程
5日目の朝がきました。今日でようやく合宿の半分の行程です。これまでと同じことをもう一回繰り返すだけで合宿終了……
とはいきません。なぜなら最初の3日はアーナパーナ瞑想。ここからはずっとヴィパッサナー瞑想ですから心身にかかる負荷は前半の日ではありません。そういえばいつかの講話で
私も2日目と5日目に逃げ出そうとしました
という話があったのを思い出しました。5日目と言ったらまさに今のタイミング。リタイアしたい気持ちは分かりますね。
とはいっても誰でもいつでも参加できるような気軽な機会ではありません。せっかくの瞑想合宿、行けるとこまで行ってみるつもりです。
スマホ中毒は収まらず
朝食の1時間半の自由時間が手持無沙汰。食事は30分もせずに済んでしまうので1時間以上暇なんですよね。
お昼であれば食事以外にも風呂に入ったり昼寝したりで意外と時間は潰せるのですが、起きたばかりの朝に寝る気もしませんし、あまり広くはない敷地を延々と散歩するのみです。
そういう状況になると手が無意識にズボンのポケットを探てしまうことに驚きました。体がスマホを探してるんですよ。
またあるときはポケットに何も入っていないことに対して
ヤバイ! スマホどこかに置き忘れた!?
と一瞬焦ったり。どれだけスマホに毒されているかを自覚するいい機会になっています。五日間スマホに触っていないだけでもスマホ禁の最長記録ですからね。
スマホを触りたい気持ちはあれど、なければないでここまで過ごせることにも気づけて何だか一種の達成感を感じて少し気持ちよくもあります。不思議な心境。
激痛の一時間
気合を入れないといけないのがグループ瞑想の1時間。この不道を貫かなくてはいけない1時間は1日に3回あります。それ以外の瞑想では自分の好きな時に体制を変えて良いのですが、そこでは決して胡坐をかかないようにしています。なぜならば胡坐が一番楽な姿勢だから。この姿勢をグループ瞑想の時間のために取っているのです。涙ぐましい努力泣。
とはいってもそんなことはちゃっちゃな抵抗で、胡坐であろうと30分座れば徐々に痛みが襲い掛かってきます。最終的には股関節が外れるんじゃないかというような痛みに。また胡坐も足の置き方がミリ単位ズレると足への血の流れが止まるんですよね。はじめは調子の良かった姿勢も、次の瞑想ではなんだかイマイチということが多々あります。姿勢ひとつとっても再現性が無いということ。いい加減に座っていてはとてもじゃないですけどあと5日はもちません。考えることが多い……。考えていたらいけないのに。
これ座椅子があったら楽だろうな~と思った瞬間に気づきました。
だからみんなクッション持ってきているのか!?
合宿前にメールで届いた持ち物リストの中に「必要な方はクッション」とあったので「座って瞑想するだけならクッションなんていらないでしょ」と全く気にも留めていませんでした。めちゃめちゃ必要じゃないですかクッション!
しかし無いものはもう仕方がありません。この痛みと共にヴィパッサナー瞑想を駆け抜けます。
全ては無常である
本格的にヴィパッサナー瞑想が始まった今日の講話はまさに私が苦しんでいたことについて触れられていました。
瞑想を続けていると感覚が常に変化していることに気づくと思う。精神と物質は絶えず変化している。無常(アニッチャ)である。
何もかもが瞬間的に変化しており一瞬たりとも止まることはない。故にしがみつくべき中核の様なものは存在しない。「わたし」や「わたしのもの」というのも存在しないのだ。
苦痛に対して嫌悪という反応をしてしまうのは「わたしの痛み」だと思っているからである。そういった意識から離れて、自分の痛みだとか自分が痛みを感じているだとかいう幻想から抜け出せれば客観的に痛みを見る目ることができるだろう。
痛みもまた一瞬一瞬変化し、消え、また生まれてくる。無常(アニッチャ)に執着する必要はない。
快楽に対してもそう。心地よい感覚を渇望してはならない。それを求める心も同じく執着である。執着は平静を乱す。
痛みに反応するのは「わたしの痛み」だと感じているから。すべては無常で拠り所とするべき「わたし」も無ければ執着するような「痛み」も無いと理解しました。
ただ言葉としては理解できてもそれを実践できるかはまた別問題。しかし新たな視点は得られたので明日はそれを意識して瞑想してみますか。
【6日目】痛みすらも観察する
痛みを放っておく
合宿も折り返し地点を越え生活リズムにも慣れてきた頃。心配事はグループ瞑想の不動の1時間のことのみです。痛みよりもそれに囚われて瞑想の恩恵を得られないのではないか? という心配があります。我慢大会で優勝することが目的ではありませんからね。
なので昨日の講話を参考に、痛みを和らげようという意識はいったん捨てることにしました。本格的なヴィパッサナー瞑想が始まってから今までできる限りの工夫はしてきましたが、これ以上小細工を弄しても劇的に痛みが和らぐことは無いでしょうから。もう瞑想時の痛みは「あって当然のもの」と割り切って「微細な感覚に気づく」というヴィパッサナー瞑想の目的に集中します。
そういう意識で臨んだグループ瞑想の一時間。20分経過したあたりからジワジワと股関節が痛んできました。しかし痛みと向き合うのはやめです。
知った事じゃない
という意識で瞑想に集中します。「わたしの痛み」なんてものは存在しないのですから。「なんか痛みを感じている人間が存在している」と客観視しようと努めます。するとーー
自分を俯瞰して見られる感覚が出てきました。痛いんですけど「痛みを感じている人間が存在している」というただの事実を見ているような感じです。「瞑想に集中する自分」と「痛みを感じる自分」が別タスクで処理されていて、脳みそが二つになったような不思議体験。
これ神髄に至ったやろ!
とテンション上がった瞬間、心地のいい分離感がなくなって「痛みを感じている自分」と「俯瞰している自分」が一つになってしまいました。つまり痛みが完全に自分ごとになって普通に不愉快。
痛みを受け入れつつ別の事に集中するという光明が見えましたがそれを維持するのはかなり難しい精神集中がいることも分かりました。面白いけど難しい……。この幽体離脱の感覚を求めて瞑想してもいけないわけですもんね。「渇望」になるから。
普通に食いごたえのあるティータイム
「核心」を掴みかけた瞑想体験の後はティータイムで休憩。いつもバナ1本とリンゴ半分を頂いていましたが今日は一味違います。
なんとリンゴ1人2個まで食べられるようになっていました( ⑉¯ ꇴ ¯⑉ )
これは元々どんどん食べられる量を増やそうとしていたのか、単純に余っているから上限が増えたからなのかは分かりませんがありがたく2個頂きます。プラスでバナナまで食べるとけっこう胃に溜まりますね。ティータイムというか完全に菜食主義者の夕飯といったボリューム。明日はリンゴ1個だけにしておきますか。皮をむくのも大変ですから。
バナナは日を追うごとに熟れてきています。初日に10日分のバナナを用意してくださっているんでしょうね。最終日には皮が真っ黒になっているかもしれません。
サンカーラという概念
講話ではこれまでの瞑想でもたびたび名前が出てきていたサンカーラという言葉について深堀がありました。
感覚に対して反応を生み出すことをサンカーラという。物事がうまくいき、それに対して喜ぶという反応をしたのならばそれは「歓喜のサンカーラ」が生まれたことになる。辛い思いをして嫌だなと反応したなら「嫌悪のサンカーラ」といった具合だ。
ヴィパッサナー瞑想法の最大の目標はこのサンカーラを生み出さないことである。
だからヴィパッサナー瞑想で微細な感覚に気づく観察をするんですね。この瞑想の肝は「感覚に対して反応しないという選択をすることでサンカーラを生まないこと」ですから、そもそも感覚に気づけないとお話になりません。
人は輪廻の輪に囚われている。死んでも次の生が待っているのは既に次の家が建っているからである。その家が何でできているかというとそれがサンカーラ。
人はあらゆることに反応し一日に無数のサンカーラを生み出す。しかし寝る前に今日一日で最も印象に残った事を思い出そうとすると、脳裏に浮かぶのはせいぜい一つか二つのサンカーラである。
一月後、その月で印象に残った事を想像する。一日に一つ二つサンカーラを思い浮かべるのだから少なくとも30以上のサンカーラが挙げられるかと思うがそうではない。ここでも思いだされるのはせいぜい一つか二つのサンカーラである。
一年後、その年で印象に残ったサンカーラも12個ではなくせいぜい一つか二つである。
人生の最後でも同じこと。今わの際に思い起こされるのは最も深く刻まれたサンカーラである。そしてそのサンカーラと共に次の生を生きるのだ。そのサンカーラが良いものか悪いものかは自分次第である。
そして良い悪いに関係なくサンカーラを生まないようにするのがヴィパッサナー。次の家の材料であるサンカーラが無ければもう生まれることは無い。輪廻を断ち切る、すなわち解脱である。
これは特に瞑想法の指導ではなくサンカーラの物語的な考え方を解いたものですけど個人的にかなり好きなお話です。死に際にいい思い出が浮かぶ人生を生きたいですよね。いや、それも「渇望」か。
【7日目】サンカーラを生み出さない
古いサンカーラが浮かび上がる
合宿に来て一週間。ぼんやりと終わりも見えてきた頃、自分の意識に変化が現れてきました。やたらと昔のことが思い起こされるようになってきたのです。それも今まで全く思い出しもしなかったものばかり。
初めの頃は沢山の妄想の種があったので考えるべき他所事も沢山ありました。「合宿が終わったら溜まっているブログを更新しなきゃ」「ソシャゲのログインボーナス途切れちゃったな」「みたかったアニメを消化しなきゃ」などなど直近の記憶の中にたくさん考えることが散らばっていたのです。
しかし一日の大半を瞑想に費やしている現在。喋ることができないという制約もあって思考しっぱなしです。加えてスマホやテレビもなく新たな情報のインプットがほとんどないので妄想の種は食いつぶされていくばかりです。
そうして考え尽くして種がなくなった状態でまだ何かを考えようとすると、これまで記憶の底に埋まっていた古い種が芽吹いてきたんですよね。思いだしてみれば「確かにそんなことあったな!」と自分が体験したことだと理解できるのですが、よくこれまで思いだしてこなかったなという驚きもありました。
サンカーラを生まないようにしていると次第に古いサンカーラも表層に浮いてくる。
これが講話で言われていた古いサンカーラが浮かび上がってきている状態かと実感しましたね。10日間なんのインプットもない状態で生活をすることで心の栄養を枯らすことができます。最近の記憶が真っ先に枯れて、次いで心は古い記憶から栄養を得ようとします。その時に自分でも忘れていたような記憶に対して反応しないことで過去のサンカーラすら解いていけるという理屈。
これは毎日毎日新しい情報が流れ込んでくる環境だとその場でサンカーラを生まないようにするだけで精いっぱいで、古いサンカーラを浮かび上がらせるまでに至らないのだと理解できました。
ただその秘めた記憶は人によってはトラウマである可能性もあります。ヴィパッサナー瞑想は麻酔なしの心の外科手術だと講話で例えられていましたが、そういうトラウマを持っている方にとっては大きな痛みを伴う瞑想かもしれませんね。
客観視できない痛み
相変わらず問題なのがグループ瞑想時の痛みです。昨日はプチ幽体離脱のような感覚を得て痛みを客観視できた気になっていましたが、それが今日はできませんでした。再現性が無いだとォ……!
しかしこれも無常(アニッチャ)。同じような状態はありませんし、それを求めるのもまた渇望のサンカーラを生んでしまいます。
昨日と同じようにできないことはできないと単に今ある現実を受け入れて観察するしかありません。それに落ち込んだりする必要もありません。必要なのは反応ではなく観察。
痛みは痛みとしてフル無視すること……はできている気がします。
微細な感覚に気づく集中力
肝心なのは微細な感覚に気づくこと。気づけなければ観察すらできません。気づかずとも感覚は存在しているはずなので、このままでは無意識化で反応している状態が終わりません。部品を作る機械のほんのちょっとしたプログラムミスに気付かず不良品を量産していることに気づかないオペレーターのような状態。感覚に気づけないということはサンカーラ量産マシーンとなっているということです。個人的な解釈ですが。
頭のてっぺんから徐々に意識を体全体に巡らせて行き最終的には全身を把握するヴィパッサナー瞑想ですがどうにも胴体が難しい。末端は感じやすいんですよね。元々精密な作業ができるように作られている手なんかは微細な感覚に気づくのが早かったです。
鈍感なのが胴体。衣擦れくらいの大きな感覚なら察知できるようにはなっていますが、それ以下の感覚となるとお手上げ状態です。
【8日目】「かくあるべし」などない
目の前には雲仙岳
一週間以上この生活リズムで過ごしていますが朝の音不足感はぬぐえませんね。朝一2時間の瞑想を終えて朝食を摂ってもまだちょっとボケボケした感じ。次の瞑想までは敷地内をウォーキングして過ごします。
お気に入りの場所が玄関前。天草青年の家からは雲仙岳が見えるんですよね。ちょうど半年前に自転車で登山口まで行って登った山です。まさか一年もたたないうちに再びお目にかかれるとは思っていませんでした。
仁王立ちで山を眺め、再びウォーキングをする。こうした徘徊で時間を潰すのです。あとできるだけ体を動かして体力的に疲労したいという思惑もあります。ずっと座って瞑想してるだけだと本当に夜寝付けないので。゚(゚^ω^゚)゚。
「かくあるべし」などない
さて休憩が終われば今日も今日とてヴィパッサナー。微細な感覚の観察です。痛みと相対するのはグループ瞑想の時間だけなのでそれ以外の瞑想時間では心行くまで観察に集中できます。
難しいのがすでにヴィパッサナー瞑想において心地よい感覚というものを味わってしまっている事。それを求めてはいけないと思いつつも同じ感覚を再現しようと意識を働かせている自分に気づきます。
正しい感覚というのを決めつてはいけない。「かくあるべし」などというものはない。ヴィパッサナー瞑想が聖なる沈黙を科しているのはそのためでもあります。つまり、もし自由に喋れたとしたら他の人と
微細な感覚感じられる?
という会話をしてしまい、それに対して
感じられるよ! 体に弱い電流が走る様な感覚があるんだ!
と言われたなら
アカン……電流なんか感じたことない。そういう感覚を探さなきゃ
と「感覚を作り上げて」それを探してしまうようになるからです。微細な感覚をどう感じるかは千差万別。なのに先入観があるとニセの感覚を作り上げてしまいます。それはあるがままを観察するヴィパッサナーの精神とは異なります。自分にとって都合のいいものを「渇望」してはいけません。聖なる沈黙によってそのような先入観から瞑想者は守られているのです。
茶を飲むのは茶碗
おやつタイムことティータイム。今日もリンゴは一人二つまでですが一個だけにしておきます。合宿も8日目となると皆さん立ち回りも慣れたもので、リンゴの皮むきに列が詰まることもありません。どうしているのかというと、リンゴを皮つきのまま丸かじりしたり、先にお茶を楽しんで列が消えてからゆっくりナイフを使ったりしています。皆さんそれぞれの食事スタイルが確立している……。
私も初めとは変化があって、お茶を飲むのに使っていた湯呑が茶碗になりました。湯呑、あまりにも一杯が小さすぎるので。ティーパックや砂糖が置いてあるコーナーは混むのでおかわりの度に行くのは面倒なんですよね。解決法は一杯をデカくする。
……次参加することがあれば水筒を持って行きます。
あまりにも見事な満月
ティータイムを終え日没。瞑想ホールに向かう途中にデカイ満月に気づきました。ド名月。この月の美しさを他の人と共有できないなんてもったいない。普段の生活であれば即SNSで発信していましたね。
スマホが無いのもったいないなぁ
と思う反面、瞑想合宿中だからより自然が美しく感じているだけでは? という考えも脳裏に浮かびました。
毎朝、雲仙岳を眺めてちょっといい気分になったり、逆に雲をかぶって展望がすぐれないとつまらない気持ちになったり、自然の表情によって動かされる心の振幅が大きくなっている気がします。
頂いている菜食料理も初めは味が薄いなと思いましたが、最近はあまりそんなことを思いませんし。素材の旨味を感じられているような気がします。
要は五感と心が鋭敏になっているということ。スマホなしの生活だからこその感性なのかもしれません。
これもまた変わる
講話は二人の兄弟のお話。諸行無常といった内容です。アニッチャ……。
お金持ちの男が二人の息子を残して亡くなりました。二人の息子は財産を半分に分け合って別れることにしました。
そうして財産を半分に分けたあとに白い包みが見つかったのです。中身は高価なダイヤの指輪と安物の銀の指輪でした。
「ダイヤの指輪は代々受け継がれてきたものに違いない。これは長男の俺が預かっておく」
「いいよ、僕は銀の方をもらうから」
こうして兄はダイヤの、弟は銀の指輪を分け合ったのです。
弟は考えました。
「なぜ安物の銀の指輪まで大事にとっていたのだろう?」
指輪を良く調べてみると文字が彫られていることに気づきます。
「これもまた変わる」
それは父親の口癖でした。弟は得心いきました。
兄弟はそれぞれの人生を歩き始めます。人生には春もあれば冬もある。
兄の方は春になれば有頂天になり、冬が来れば落ち込みました。そうすると次第に心の平衡を欠き、ついには強い薬に頼らなくてなならない始末です。
一方で弟は、春になれば楽しみ、しかし指輪を見て「これもまた変わる」と思いだしました。冬になれば「これもまた変わる」と落ち込みもしませんでした。
弟は人生の浮き沈みにあっても慌てることなく穏やかで幸せな人生を過ごしましたとさ。
禍福は糾える縄の如し。良いことも悪いこともあるのは当たり前のこと。それに一々反応しない。まさにヴィパッサナー的なお話ですね。
実家の近くの公園が取り潰されることが決まったことを思い出しました。何度も遊んだことのある思い出の公園がなくなるのはさみしいなと思ったのですが、いま考えればそれもサンカーラ。無常なのだから永遠に存在する公園なんてありませんね。私の思い出の公園もはなからそこに存在していたわけではありません。誰かの思い出の場所を潰して作られたものなのでしょう。現在、思い出の公園を潰して新たにできるエリアもまた誰かの思い出の土地になり、それもいつかは消えていく。自然の摂理。アニッチャ……。
これなんか陰気な思考じゃない?
と思ったらちゃんと講話でケアしてくれました。
「反応なしにどうやって世界と関わっていくのか。何に対しても反応しない精神を持つと無気力人間になるのではないか」という疑問を持つ瞑想者がいますがそれは違います。
ヴィパッサナー瞑想をするとむしろ行動は前向きになります。自分の行動を、何かへの反応の結果ではなく、自分の意志で正しい道を選ぶことができます。
確かに自分の行動は己で自由に決めているつもりだけど、よく考えていたら色んなしがらみの中で制限された選択肢から選んでいるだけなこともありますね。
外圧に影響されない行動指針を持てるなら確かにその人は超活動的かもしれません。
【9日目】がっつり瞑想ラストデー
存分に瞑想できるのは今日が最後
合宿9日目。聖なる沈黙は明日の午前中に解かれるので、瞑想にガッツリ励めるのは今日が最後です。
今日が最後か……
そう思うと残り時間を考えてしまって良くないですね。マラソンもゴールを意識すると急につらくなるものです。
終わった後のことは考えず現在の瞑想に集中しましょう。今だ微細な感覚は全身で感じることができていないのですから。
頭頂部から始めてCTスキャンのように全身をチェック。わずかでも感覚を感じたら次のエリアへ。
しかし毎回胸で止まってしまいますね。胴体に微細な感覚を感じるのは難しい。
どうしても微細な感覚を感じない部分があるときは一分間底に意識をとどめてみなさい。一分経ったら感じる感じないにかかわらず次の部分へ意識をやります。
この時に感覚を感じられなかったからと落ち込んだり、また感覚を感じられたからと言って喜んではいけません。反応してはいけません。もうこれ以上サンカーラを生まないように。
音声テープのアドバイスに従って瞑想を続けます。何があっても反応しないということは、サンカーラを生まないということは難しい。気づけば微細な感覚を渇望してしまっていましたからね。長年心に染みついた反応する癖というものに気づけただけでも上々と思うことにします。
さて問題の胴体の感覚。渇望も嫌悪もせずただ一点に集中してみましょう。心臓あたりの一点に意識をむけしばらく観察をします。するとその一点だけなんだか痺れるような温かいような。観察を続けていくとその一点からジワリと感覚のあるエリアが広がり始めました。
その回での瞑想では、初めの一点から10円玉程度のエリアまで拡張することが限界でしたが、これを続けていけばいいのではという光明が見えました。うれし……イカンイカン、サンカーラが生まれてしまう。微細な感覚も無常(アニッチャ)。喜べば今度は感覚を感じない時に落ち込んでしまいます。アニッチャ、アニッチャ。
完璧な瞑想はできていない
個人的にはですけどヴィパッサナー瞑想で要求されるレベルはかなり高いように感じます。それこそ一度の参加、私のような新しい生徒だと講話で言われているような瞑想を実践できている人は全体の何パーセントほどか。
だからこそ古い生徒という枠組みがあるように二度三度とリピーターがいるのだろうとも納得しましたが。
今回の合宿は10日間の行程というスタンダードなものでしたが、たまに30日以上の合宿もあるようですし、そちらに参加するとより多くの気づきがあるのだろうなとぼんやり感じました。まあそのレベルになると単純に瞑想よりもこの生活を一カ月続けることの困難の方が大きい気もします。もしかしたらどんどん適応して苦ではなくなるのかもしれません。
私も今の生活リズムにようやく慣れ始めたところですね。それでもまだスマホへの雑念はあるのでデジタルデトックスは完全には成っていませんが(^-^;
ついに明日がラスト
9日目の瞑想がすべて終わりホールから出た後、何とも言えない気分になりました。何かひと段落着いたようなそんな感じ。ガッツリ瞑想できる期間はもう終わったんですね。
いよいよ明日はラスト。そう思うと興奮してうまく寝付けませんでした。サンカーラ出てるよ。
【10日目】聖なる沈黙が解かれる日
とうとうこの日がやってきました。合宿の最終日、聖なる沈黙が解かれる日です!
メッター・バーヴァナー
今日はヴィパッサナー瞑想ではなく仕上げとなるメッター・バーヴァナーという瞑想を行います。メッターとは愛。この瞑想は純粋で思いやりのあるポジティブな波動を周囲の空間に送り込む瞑想法です。すべてのものが幸せでありますようにという祈りの瞑想。とことん現実の感覚を観察するヴィパッサナーとは対極にある様な瞑想ですね。
ヴィパッサナーは心の手術という比喩が度々使われてきましたが、このメッター・バーヴァナーはその手術痕をふさぐための絆創膏のような物だと説明されました。
聖なる沈黙、解除!
最後の瞑想の指導が終わると指導者たちはホールから静かに出ていきました。その後は特にアナウンスもなく放置。
えっ、終わったの?
特に何もアクションが起こりません。もう外に出ちゃっていいのかなと迷っていると何人かの生徒が立ち上がって外に出始めたので私もそれについていきました。
するとホールを出たところに立て札が設置されているのを発見。そこには
聖なる沈黙は解かれました
と書かれているじゃないですか!
えっ……
ッハァ……!
沈黙解除!
ここからはおしゃべりOKです! ついに禁が解かれたか……!
後からどんどんホールから生徒たちが出てきます。皆さん立て札を読んで少し戸惑い気味。しかし徐々に状況を理解したようでざわざわ声がするようになってきました。この空間に話し声があるだと……! なんだかとても新鮮です。
最後まで聖なる沈黙を貫かないのは、沈黙を解いた後いきなり普段の生活に戻ると刺激が強すぎるので、同じ合宿に参加した方々との会話で慣らすため
ルームメイトとはずむおしゃべり
とりあえず自室に戻って昼食の時間まで待つことにします。特に何をやっていいかも思いつかなかったので自然と足は宿泊棟に向きました。
聖なる沈黙が解かれた実感があまり湧きません。もはやこの場では喋らないことがデフォとなっているので今更何を離したらいいのやら……。
そう思っていると10日間共に過ごしたルームメイトが帰ってきました。そうしたら自然と
お疲れ様です! 終わりましたね~
と言葉が出てきました。沈黙が終わるのはあっけないものです( ⑉¯ ꇴ ¯⑉ )
10日間も同じ生活を続けていると、言葉は交わさずとも顔なじみにはなります。同じ部屋の人だったらなおさらです。沈黙という制限が取り払われれば話したい事、聞きたいことだらけです。
結局、昼食のチャイムが鳴るまで一時間以上ずっとルームメイト3人と話していました。ここまで話題が尽きずにずっと話し続けるのは初めてかもしれません。
ほこからさんずっと座布団一枚で瞑想してましたよね。痛くなかったんですか?
めちゃ痛かったです泣
振り返って見ればクッションを使っていなかった人は私を含め片手で数えるほどだったんですよね。次があればクッションは絶対持って行きます。
クッションを使う事で瞑想の痛みを和らげるのは修行にならないのではないかと思っていたのですが、わざわざ痛い思いをする必要はないようです。ヴィパッサナー瞑想は苦行ではないので瞑想に集中できる座り方があるのであればそのように座れば良いのですね
わざわざ痛い姿勢をするというのは「痛みという感覚」を自分で作っていることと同じで、「かくあるべし」という感覚を望んで瞑想する失敗パターンと同じことか、と納得。今回はクッションを持っていなかったので望んでそうしたわけではありませんが。
自前の毛布が余ってるからこれをクッションにして次の瞑想やってみてくださいよ( ⑉¯ ꇴ ¯⑉ )
マジですか。ありがとうございます!
という事で最終日にしてクッションを使う機会を得られました。面白い。
賑やかな食堂
昼食を食べに食堂へ。10日間利用した食堂も聖なる沈黙が解かれて雰囲気がガラッと変わっていました。超賑やかなんですよ。いつもは食器の音しかしていなかったのでとても新鮮ですね。
昼食のメニューはカレーでした。具材には肉が使われていませんが厚揚げが入っていて食いごたえがありましたね。
せっかくの機会ですから色んなテーブルに移って参加者の方々と喋り倒しました。面白かったのが皆さんお互いの食事スタイルを把握していたところ。私が梅干しだけで米をたくさん食べていることも認知されていて笑いました。というか私も人の食事を把握していたんですよね。「この人は食事のあと絶対コーヒーだよな」「あの人はごま塩で米を食うよな」とか。合宿中は取得する情報が少なすぎて細かなことまで脳みそに入って来るのかもしれません。
今日帰れないんですか!?
喋っても喋っても話題がつきません。同じ体験を10日間したもの同士ですから共通の話題はいくらでもありますからね。それに加えて身の上話まで入るとどこまでも会話が広がります。
私も日本一周を終えた3日後にこの合宿に参加したことを話すとそこから旅の話にも派生しますしね。とにかく楽しい時間でした。
しかしいきなり頭に入ってくる情報が増えてもそれを全部記憶はできません。スマホがあれば逐一記録できるんだけどなぁ、と思いながらいつ貴重品の返却が行われるのかと気になっているとーー
あす車に乗り合わせてバス停に戻る方は連絡ください
というアナウンスがありました。
あ、今日帰れないのか!
完全に勘違いしていました。瞑想合宿は0日目を含めると11泊12日の行程なんですね。
周りの人には今日終わると言ってしまったな
私はいいんですけど、山奥で10日間喋らない瞑想合宿に行くと言った人間が帰宅予定日にも連絡が無いとなると騒ぎになるのではないかといううっすらとした心配があります。
まあ天草青年の家にいる事は言っていますし、ここの管理者はヴィパッサナー瞑想とは関係ない職員の方々なのでトラブルにはならないでしょう。最悪施設に連絡が入るでしょうしね。
クッションありの瞑想体験
聖なる沈黙は解かれましたがグループ瞑想の時間はいつも通り存在します。そこで先ほど貸してもらった毛布をクッション代わりにして瞑想してみます。
革 命 や
お尻の位置が上がるにつれて苦痛が少なくなります。これからヴィパッサナー瞑想に参加したいと思われる方は是非クッションを持って行きましょう。苦痛と戦う時間を瞑想に集中する時間に使えますよ!
とはいっても全く痛みがなくなるわけではないので一時間不動を貫くというのはやはり大変ではありますが。
【11日目】日常へ戻る日
ついに下界へ帰る日がやってきました。これだけ長い事外界と隔離されたのは南アルプス縦走以来です。とはいっても山では交流もありますし電波が繋がればSNSもできるので隔絶された環境としてはヴィパッサナー瞑想合宿の方に軍配が上がります。
最後の瞑想
いつも通り4時に起きて朝の瞑想を行います。正真正銘最後の瞑想です。しかし最後だからと言って特別気負うわけでもなく、いつもと変わらない心持で臨もうと努めました。ヴィパッサナー瞑想に「最後だから頑張る」なんてものは無いのです。ヴィパッサナーに限らずどんなこともそうかもしれませんね。ずっと続けるにはムラをつくらないことが重要です。
朝食後に解散
瞑想が終わったら朝食。聖なる沈黙は解かれているのでここでもおしゃべりを楽しみながら食事をしました。
その後はいよいよ荷物を返してもらって解散です。10日ぶりのスマートホン。一体どういう気持ちになるのかというと
すごい違和感
未知なる物体に感じます。スマホを使って色んなことしたいと思っていたはずなのに電源を入れたいという気持ちにならないのも驚きでした。
ヴィパッサナー瞑想に参加するまで常にスマホを触っているような生活だったわけですが、10日間スマホ断ちしたことで「意外と触らなくても平気じゃん」という気持ちに慣れたんですよね。その境地がいまスマホを使う事で失われるかと思うとなんだかもったいない気分になったのです。
しかしバスの時間を調べるにもブログ用の写真を撮るにも使わざるを得ませんからね。もはや生活には欠かせなくなっているスマホを見て「便利とは……?」と考えさせられました。
お世話になった施設の跡片付け
現在8時20分。バスの時間は調べるまでもなく黒板に張り出してくださってましたね。今から向かえば10:13のバスには余裕で間に合いそうですが
私は施設の片付けのお手伝いをしてから帰ろうと思います。今回の瞑想合宿は臨時で施設を借りてそれ用に整えたもの。バリケードや案内板など片付けるものが沢山あるのです。
ただ飯食わせてもらって貴重な体験をさせてもらったわけですから片付けくらいは協力させてもらいます。
ボランティアで残る方が食堂にはまだたくさんいますね。
男女の分離をしていた黒いバリケードをはがしたり
瞑想ホールの座布団を片付けてパイプ椅子を設置したりします。前に少し座布団を残しているのはボランティアで残って今日も泊まる方々用のものです。もう一泊する人はグループ瞑想をしていたスケジュールであと一日瞑想も行うんですって。
私もあと一泊しても良かったかもしれません。もう今日帰る気になっていたので片付けの手伝いだけで泊まりはしませんが。
施設内を駆けまわり
宿泊棟の張り紙も全部はがします。この施設かなりきれいでしたね。住み心地が良かったです。
玄関前は駐車場で景観がすごく良いんですよ。
今日は雲っててイマイチですが。
晴れた日の早朝なんかはそれは見事な雲仙岳が見られました。
片付けもひと段落着きました。もうお昼ご飯の時間です。希望すればお昼も食べて帰れるのですが下界で脂っこいもの食べようと思っていたのでここで早めておきます。
そろそろ出ますかね。このデイカウンターを見るのもこれが最後……いつもは「まだ○○日目か」とばかり思っていましたが最終日ともなると寂しさも感じます。
玄関でほかの参加者の方々と駄弁ってから出発。本当にいくらでも喋れてしまいます。旅人の方や山好きの方も何人かいたので余計に話が弾んでしまってね……。10日もこんな生活は無理! と思っていたのが今や名残惜しさを感じるほどです。まさか日本一周という大イベントが終わった直後にこんないい経験ができるとは。人生というのは分からないもんです。
さらば天草青年の家!
さあ! 気持ちを切り替えて日常へ戻りますか! ありがとうヴィパッサナー瞑想! ありがとう天草青年の家!
もちろん帰りもバス停までは徒歩です( ⑉¯ ꇴ ¯⑉ )
13時半にバス停到着。
桜町ターミナル行きは14:42ですか。一時間以上待ちぼうけですね。まあ良いでしょう。それくらいの時間ならアーナパーナでもキメていればすぐ過ぎます。
そう思ったタイミングで同じく合宿参加者の方々がバス停に来たのでおしゃべりして待ち時間を過ごすことができました。
瞑想や旅の話をしていたらあっという間に時間が経ちますね。
記念写真を撮ってくださったりもしました。ブログ的にありがたいです( ⑉¯ ꇴ ¯⑉ )
バスに乗って熊本駅に着いた時はもう夕暮れ時。長いこと揺られていました。
このような長距離移動の時はイヤホンで音楽を聴いて過ごしているんですけど、今日は全くそんな気分になりませんでした。音楽って情報量が多いんですよ。ヴィパッサナー瞑想合宿上がりで静謐な精神状態がまだ維持されている状態だと刺激が強すぎるんですよね。自然と目に、耳に入る情報以外は今はいいやという気分です。まさかこの現代でそんな気分になる日が来るとはね。
さてバスでの長旅が長いのはここからです。熊本から都城まで長距離バスで返らないといけませんからね。飲み物や軽食をコンビニで買ってバスを待ちます。
瞑想している間に12月になって駅前もすっかり冬の装いですね。
熊本駅からバスに乗って20時半に都城到着。お疲れ様でした。
ヴィパッサナー瞑想を終えて
奉仕者・指導者への感謝
まずは奉仕者・指導者の方々への感謝。これが第一ですね。10日間喋れないという瞑想に集中する環境を維持するのは瞑想者個人の努力では限界があります。食事の用意に意識を割かないでいられるのも、今日寝る場所に困らないでいられるのも、奉仕者がボランティアで我々の世話を焼いていてくれるからです。本当、こんなことをボランティアでやってくれるなんてすごいことですよ。全く当たり前のことではありません。瞑想そのものの指導をしてくださった指導者のありがたさは言わずもがな。私のこの得難い瞑想体験は善意で支えられていました。本当にありがとうございました。
ヴィパッサナー瞑想で得られたもの
この記事を書いている現在は、瞑想合宿が終わってから約三カ月経過しています。合宿が終わった直後はここで得られたのは「落ち着いた心」「スマホ中毒からの脱出」だと思っていたのですがそれらは一時的なものでした。
落ち着いた気持ちで過ごせていたのと、スマホに頼る必要が無かったのはそういう環境が用意されていたからです。日常生活に戻ってみれば瞑想以外の情報を否応なしに受信しないといけませんし、そういった情報のやり取りもスマホやパソコンが必須です。
再び瞑想前と同じ環境に身を置くことで気分も瞑想前と同じものになりました。
ではヴィパッサナー瞑想で得られたものはないのか?
いいえ、ヴィパッサナー瞑想で得られたものはあります。自分でも意外だったんですけど3カ月経過した今でもずっと心の中にあるのはサンカーラの概念です。感覚に対する反応で生まれるサンカーラ。それを発生させるのはやめようねという考え方がずっと残っています。
イライラしそうになると
ヤバイ、嫌悪のサンカーラ出てる
何かを欲すると
これ渇望のサンカーラじゃない?
とむやみに反応しないようにするストッパーが生まれていました。感覚には反応せずただ観察するという考え方がかなり気に入っていたようです。
ヴィパッサナー瞑想に興味を持った方へ
10日間で得たものがそれ!? と思えなくもないですがひとつかみでもでも手の中に残るものがあったというのは大きな収穫です。
奥が深すぎるこの瞑想法。当然10日間の合宿ですべてをマスターしたなどということは口が裂けても言えません。実際、全身に微細な感覚を感じるというのはできないままですしね。胸がむずいのよ。
この瞑想に習熟しようとなると10日では足りません。実際、最後のビデオでも「年に一回はセンターで10日間コースを受けることが望ましい」と言っていましたしね。もっと長期の30日間のコースもありますし。
何が言いたいかというと10日間の合宿はしり込みするほどのものではないということです。Googleで検索してサジェストされる「やばい」なんておそるるに足らず。ヤバいのはグループ瞑想の一時間で痛む股関節だけです。クッションは絶対に持って行きましょう。
楽ちんだとまでは言いませんが、得難い体験ですし、得られたものもありました。私としてはとてもおススメできる瞑想合宿なので興味のある方はぜひ参加してもらいたいですね。
10日も休みとれねーよ!
それはそう。サラリーマンには依然として厳しすぎる日程ではあります。まあ終身雇用は終わったと言われる現代。誰しも一度や二度は転職の機会があるかもしれません。会社を辞めたらやってみたいことリストにヴィパッサナー瞑想を追加してもらえたらうれしいです。
学生だったら夏休みや就活後に行ってみましょう!
補足ですが世界的なヴィパッサナー指導者であるゴエンカ氏によれば「偶然ヴィパッサナー瞑想合宿に参加する人はいない」のだとか。これまでの良い行いの結果、合宿でヴィパッサナーの精神を学ぶ機会に恵まれるのだと言います。弘法大師に呼ばれることでお遍路をすることになるというのに似ているなと思いました。
さいごに
いろいろ言いましたがあくまでもこれらは私個人の感想。同じ体験をしてどう感じるかは人それぞれです。当たり前のことのようですが、当たり前のことをありのままに感じられているか? 観察できているか? ということを何度も問われる瞑想でした。
瞑想合宿に参加しようと思っている方がもしこの記事を参考にしようと思ってくださったならそれはとてもうれしいことですが、ここに書かれたことと同じ体験を期待はしないでください。「微細な感覚」がどのような感覚かは違うでしょうし、この合宿から得られるものも当然違うでしょうから。もしかしたら一時間不動の姿勢を貫いても痛みを感じない人もいるかも。先入観とはつまり「かくあるべし」。ヴィパッサナーの体験には邪魔なものです。
ごちゃごちゃ言いましたが、この記事が「ちょっと行ってみようかな」くらいの好奇心を刺激出来たら幸いです。細かく書こうと思えばまだまだありますがいくら何でもこの記事は長すぎるのでここらへんで締めたいと思います。
ヴィパッサナー瞑想はいいぞ。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
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